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◇◇◇
夕暮れのクレベール広場で、ベンチに座っていた。観光客たちが僕の目の前を通り過ぎていく。僕もそれなりの格好をすれば、観光客と何ら変わりない異国の人間だ。それでも、半年この街で暮らしたという気配が、僕に纏わりついている。
観光客でもなく、街の人間でもない、中途半端さ。クリスマス用にライトアップされたモミの木が、広場のメインである彫像を霞ませている。賑やかな広場に、そして世界に、混じれない。
明るければ明るいほど、ひとりになっていく。
僕だって、そう振る舞いたいのに。
能天気で、ただ笑っていることが許される、僕。それが自分であるべきなのに、もう、戻れないところまで転がっている。
「写真、撮ってもらえませんか?」
たどたどしいフランス語で、観光客が僕に声をかける。アジア人だった。期待と緊張で一杯になった、小さな目を向けている。くりくりした瞳が、小動物を思わせた。フランス語で通じ合える喜びを、望んでいるんだってすぐに分かった。
僕はフランス人じゃないのに。
でも、この人には、わからないんだろう。僕は西洋人という括りで、更にここがフランスだから、そうやって声をかけるのが自然だと思っているんだ。
僕は、笑いもせず、返答もしなかった。
やがてその人は、数秒躊躇った後に、「ごめんなさい」と謝って立ち去っていった。逃げるようだった。謝る必要なんてこれっぽっちもないのに。日本人だったのかな。中国人かもしれない。僕だって、アジア人の見分けなんてつかなかった。
嫌な思いをさせただろう。期待を裏切っただろう。でも、それが今更何だっていうんだ。僕は期待されていない。両親にも、もしかしたら……彼女にも。
大切な人たちに期待されていないのに、赤の他人に対して、何を、どう、応えろっていうんだ。
俯く僕のうなじが、ひやりとする。十二月の冷たい滴が、空から零れ始めていた。天候を予測していた雨傘の物売りが、ここぞとばかりに観光客に声を掛け始める。折りたたみ傘一本が、10ユーロだ。本当は3ユーロもしないで買えるのに。
馬鹿みたいだ。
雨が、僕の身体を冷やしきってしまえばいいと思った。
この存在そのものを、消してくれればいい。リセット出来るものならば、そうしたかった。
「濡れますよ……?」
また、フランス語だった。
でも、ネイティブと変わらない流暢な発音で、雑踏に失われがちな声量は、聞き覚えがあった。
「うん」
顔を上げることが出来ない。
「どうしたんですか……?」
僕の恋人は、やっぱり優しい声をしていた。僕を探しにきてくれたの? そう言ってみたかったけど、言葉にならない。
「あのね……」
――あのね、僕、君のことを、色々調べちゃったんだ。勝手にごめんね、怒らないでほしいんだ。図書館で調べ物をしていたらね、六年前の事件を、見つけたんだよ。
プラハの二つ星のホテルで。
フローレンツ駅ってところの近くだよね。僕、行ったことないけど。
君は、かわいそうな目に遭ってしまったんだろ。
ショックだった。
目を瞑りたかったよ。
一番ショックなのは、君なのにね。
君のは載っていなかったけど、男の名前ですべて分かったよ。
やっぱり僕じゃ、受けとめられない事実なのかな。
君の、手首の傷は、それだったんだ。
ああ、うん――、手首のことも、勝手に見ちゃったんだ。
君は、新聞の中で、悲劇のヒロインだったね。君のお母さんも、そうだった。相手の男を、許したって書いてあったよ。ひとりじゃ自殺出来ない可哀想な男を、許してやったんだ。
でもね……
もっと言えば、その報道が嘘だっていうのも、知ってるんだ。どうしてそんな風に、事実が歪められちゃったのかな。僕は、わかんないけど、ひどいことだよね。
うん……
わかってる。
一番ひどいのは、僕だよ。
君が彼に送ったメール、全部、見ちゃったんだ。
「……クリスマスツリー、綺麗だよね」
「…………」
彼女は無言で、僕に傘を傾けていた。もう、冷たい水は、降り注いでこない。ぽつぽつと、黒い傘を雨粒が叩く。とても、不安定なリズムで。
「さっきね、アジア人の観光客に写真を撮ってあげたよ。フランス語で声を掛けられたんだ。英語でいいのにね。最後も、メルシ、って言われちゃった」
「……どうしたんですか?」
さっきよりも、強い語調だった。でも、咎めるようなものじゃなくて、純粋に、ただひたすら、僕を心配している。
本当は罵っていいのに。
僕は答えられなかった。首を、ただ横に振った。
「……悲しいことが、あったの?」
あまりに、彼女の声が優しくて、泣きたくなった。
「私に話してください……」
「……うん」
――あったよ、悲しいこと。
悲しいことだらけなんだ。
誰も、見てくれないんだ。
君がいてくれて、僕は、僕になれたと思ったのに。
それなのに、君だって、何も打ち明けてくれないんだもの。
全部じゃなくたっていいんだ。
でも、ひとかけらでも、彼に伝えた言葉を、僕に向けてくれたら良かったのに。
僕だって、君の好きな街を、一緒に歩きたいよ。
プラハには何があったの?
どこに行ったの?
綺麗だった?
ドイツより良かった? ストラスブールより? ロンドンより?
僕だって……
君を救いたいよ。
でも――
僕が一番、よくわかってる。
君は見抜いているのかな。
僕が、頼れない男だって。
だって、一番悲しかったのは……
真相を知っているのに、彼に同情の気持ちひとつ湧かなかったことなんだ。
きっと、僕なら耐えられない。
そんなひどい罪を被せられて。やってもないのに。
でも、彼がどんな風に苦しんでいるかなんて、どうでも良かったんだ。
君が大事にしている傷跡を、共有している彼を、羨んだんだ。
君の人生の中で、一番の、大きな秘密を知っている彼を。
僕が知るべきでない過去を、彼は知っている。
……どうかしてるよね。
君にも、彼にも、ひどいことだよね。
羨むなんて、おかしなことだよね。
自分勝手だ。
死を選ぼうとするほどの、辛い出来事を、僕は、こんな浅はかなやり方でしか捉えられない。
醜いよ。
どうしようもない。
僕はこんな人間だったんだ……。
「ちょっと……、友達と、喧嘩しちゃって」
「…………」
彼女の気配が近づいた。しゃがみこんで、目線を合わせようとしている。あまり人の目を見ない子なんだけど、この時は逆だった。僕は目を見られないのに、彼女の赤い瞳は、僕をまっすぐ捉えている。
おそろしいほど純粋で、澄んでいる。
沈黙が長かった。
嘘だって、ばれているのかもしれない。でも、どうあったって、本当のことなんて言えやしない。
「大丈夫……」
彼女が慰めてくれる。僕の頬を、指先が掠める。控えめに、触れてくれる。いつだって、触れるのは僕からだった。僕が彼女を求めて、応えてくれるのは彼女の方だった。
「笑ってください」
冷たい指先が撫でる。いつも、へらへら笑う、僕の唇。
「つらいことがあっても、笑顔を作ってみるんです。それから、上を向いてください。……きっと、少しだけ、楽になるから」
腹の奥に溜まりきったものが、形になりきれず、嗚咽になる。僕は、背を震わせていた。本当は、そんな風に振る舞える権利なんて、無いというのに。
「……笑うと、気分が楽になると、教えてくれたのはあなたです」
彼女は、きっと、控えめに笑っている。
僕は、まだ笑えない。泣いていた。
みっともなく、みじめに、ちっぽけに、泣いている。
「あなたは、笑っている顔が、とても似合いますよ……」
ああ、そうだ。
彼女は、メールで伝えていた。
僕の人柄を、そうやって解釈していた。
太陽のように笑うって。暗い気持ちも吹っ飛んでしまうって。
本当は、ずっと前から、僕の笑顔なんて空っぽなのに。惰性のように染み付いた、笑い顔。習性みたいなものだ。愛想の良さだけが取り柄で、へらへらと、中身のない笑顔を作りあげている。
それでも――
彼女が評価した人間になりたかった。
戻りたかった。
苦しみなんて知らずに、未来が明るいと信じる、呑気な僕に。
もうだめなんだ。
この笑顔は、もう、作りものなんだ。
でも、彼女が笑ってくれと言うのなら、僕の笑顔が好きだと思うのなら、まだ、出来るはずだ。
彼女が何も打ち明けてくれなくても、僕に残された価値が、その笑顔なら……
僕は、笑うよ。
「うん」
笑って、いられるよ。
「……ありがとう」
亀裂の入らない笑い方を、それだけを、知っているから。
◇◇◇
冬が過ぎて、春になる。
みんなが、国に戻っていく。
さよならパーティは豪勢だった。
ヤコポが実家からワインを取り寄せて、馬鹿みたいに飲んで、アパートのリビングで踊って、騒いだ。マリーアのダンスはかっこよかった。僕のダンスは間抜けだったけど、笑いが取れた。いつもは踊らない僕の恋人も、少しだけ輪に交わった。ポーリーンが、ギターで一曲披露した。お嬢様だってギターが弾けるのよ、なんて笑っていた。彼女のギターに合わせてネインが歌っていた。上手いのに、酔わないと彼は歌わないんだ。
◇◇◇
彼女は、また、彼にメールを書いたようだった。
その時は、盗み見なかった。
もう、彼女を探るのはやめようと思った。
必死に自分を抑えつけて、パーティに没頭している振りをして、彼女が向けるレンズに笑顔を向けた。
――道化だった。
◇◇◇
賑やかな、青春の日々が遠ざかる。
忌々しいロンドンに、戻る日が、やってくる。
◇◇◇
それは、帰国してすぐの出来事だった。
授業が始まる数日前。
彼女が、大きな事故にあった。
◇◇◇
授業なんて出たくなかったけど、そんな時でも、親の目を気にしていた。彼らの評価を恐れて、何より一番にしたいことを、後回しにした。僕は授業を受け終わってから病院に通い詰めた。
不幸な事故だった。
彼女は、空港に向かう途中で、トラックに巻き込まれた。車は、炎上し、大破した。
彼女の叔父さんと叔母さんは、即死だったらしい。
でも、不幸中の幸いと言うべきか、彼女だけは生き残った。
僕は彼女に言うべき言葉をたくさん考えながら、お見舞いに行った。でも、何度通い詰めても、面会謝絶だった。
一か月くらい、そんな日々が続いた。
彼女の容体を問い詰めても、誰も答えてくれない。それほどまで、ひどい状況なんだろうか。毎日、胃を握りつぶされる気分だった。不安で仕方が無くて、授業に出たって何も頭に入ってこない。
また単位を落とすかもしれない、と思った。
◇◇◇
彼女とようやく会えたのは、五月の終わりに近かった。
結局病院では顔を合わせられず、退院後、彼女のアパートに向かった。
一人暮らしをしていた。親族を失ってしまった彼女に、慰める言葉をたくさん用意していたはずなのに、おあずけを喰らいすぎて何も言えなくなっていた。でも、思った以上に彼女は元気そうで、怪我も残っていなかった。
やっぱり僕は、自分勝手に、嬉しくなった。彼女のきめ細やかな肌も損なわれていなかったし、長い純白の髪もそのままだ。大火傷をして面会謝絶になっていたのかと、そう思ったけど、違かった。
「ずっと面会出来ないんだもの……どうしちゃったのかと思った」
「ごめんなさい。事故のショックで……とても人と話せる状態じゃなくて……」
「……僕が相手でも?」
「…………」
「ごめん、困らせたくて言ったんじゃないんだよ。本当に、僕、心配したんだ」
「ありがとう……」
「うん……」
僕は彼女の顔をじっと見つめていた。
彼女はそっと目を逸らした。僕の胸元あたりを見ている。
よく目を逸らす子なんだ。
「あのさ、お菓子買ってきたんだけど。食べる?」
「じゃあ、お茶を淹れますね」
事故の話は、極力出さないようにしようと思った。
せめて僕と一緒にいるときは、怖いこと、辛いことを思い出させたくない。
でも――
「あ――」
キッチンに向かおうとした彼女を、僕は衝動で抱きしめていた。
折れそうなほどか弱い、彼女の身体。優しい石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。
「会いたかった」
それは、彼女のことを思ってやった行動じゃない。
僕のためだ。
僕が寂しくて、孤独しかなくて、怖くて、彼女の存在を確かめたかった。
ここにいるという事実。消えてなんかない、って。
「君がいない時間は、空白だったよ……怖かった。ひとりぼっちになった気分だった。なんにも手がつかなかったんだ。寂しくて、寂しくて、どうにかなっちゃいそうだった。ごめん……、ごめんね。本当は、僕がしっかりしなきゃいけないのに。君の方がよっぽど不安な思いを抱えてるはずなのに」
「…………」
「でも、確かめさせて……。君が、僕の傍にいるんだって。僕に触れて……お願いだよ」
「大丈夫……、私はいなくなったりなんか、しませんよ」
彼女は優しく触れた。僕の髪を撫でて、冷たい指先が頬をなぞる。
クレベール広場で僕を慰めてくれたみたいに、してくれてるんだって思った。
「私……あなたのこと、好きですよ」
その指先が、僕の唇を避けるようにして顎に向かい、肩へ落ちた。
――違和感。
「う……うん。僕も、君が好き。大好きなんだ」
今の感覚は――なんだ?
「情けなくてごめんね? ……あの時みたいだね」
「…………」
彼女は答えない。
広場の出来事を忘れている? それとも、僕があの瞬間を覚えすぎているだけ?
「会えて良かったよ」
「ええ……」
誤魔化すみたいに、僕は笑った。
彼女も笑う。でも――何かが違う気がする。
何が違うんだ?
それが、明確にならない。漠然とした不安が僕を包み込んでいく。
彼女の無事を確かめることが出来て、こんなにも嬉しいのに、背筋を這う冷たいものの正体は、何なのだろう。
控えめに笑う表情も、あまり目を見てくれないところも、何もかも同じだというのに、何かが……引っ掛かる。
好意を向けられているのに、どこか、感情がすりぬけていくような感じ。
好きだと言ってくれているその言葉が、信じられない。
どうして信じられないんだ? 何がおかしいんだ? 理由が説明できない。分からない。
「急に抱きしめてごめん……」
「いえ……大丈夫です」
どうして、大丈夫、なんだ?
だってほら――いつもなら――、いつもなら、彼女はどうしていた?
多分、目を逸らして、恥ずかしそうにして、控えめに笑う。
そりゃ、事故なんて起きた後なんだ。親族を失っていつも通りになんか出来ないだろう。
僕を取り囲む形のない恐怖を、払うために。言い訳や理由を探る。
彼女は僕の腕から抜けて、「お茶、淹れますから」――そう言ってキッチンに向かった。
「…………」
もしかして……、会わない間に、心変わりでもしたんだろうか。
首筋の裏に、いやな汗をかく。
僕がしでかしたことを、知ってしまった?
彼女の過去を探り、そして、メールを全て見たことを。
プリントアウトした紙の束は、シュレッダーにかけて捨てている。でも……、どこかで、見落としがあったのだろうか。
「僕……、何か、変なことをした?」
戻ってきた彼女にそう言った。
直接的に、聞けなかった。何か、という曖昧な誤魔化し方で、彼女の出方を窺ってしまう。
「いいえ……、何も」
「そう……?」
「はい」
何かが違う。
僕と彼女の間に、大きな隔たりがある。
彼女が無意識にラインを引いている。
僕が、鈍い、呑気な男だから、気付かないと思っている?
「……交響曲第八番は?」
「え……?」
「ドヴォルザークだよ」
違和感のひとつに気づく。
彼女はお気に入りのCDプレイヤーを持っていて、いつも、ドヴォルザークをかけていた。僕はクラシックが苦手だった。演劇も苦手だ。どんなに壮大なものを見せつけられても、眠たくなってしまう。生理的にだめなんだろう。
でも、彼女が好きなものだったから、勉強した。一緒に聴けるようにと思って、ドヴォルザークだけは、分かるようにしていた。
「いつも、かけてるじゃないか」
「今日は……、気分が、違ったんです」
彼女は、少し、困ったように微笑んだ。うろたえた様子はなかった。CDケースからディスクを取り出すと、プレイヤーにセットする。
でも……、
「それは――第九だ」
「…………」
「新世界より……」
彼女が、ドヴォルザークの曲を、間違えるはずがないのに。
「引っ越したばかりだから」
置き場所を変えた、とでも言いたいんだろう。
取り繕うような声ではなかった。いっそ、堂々としていて、そうなのかもしれない、と思わせるほどだった。
彼女の振る舞いは、とても、彼女らしかった。
誰が見ても、彼女だと思えるはずだ。
僕だって、そう思うだろう。
もし――僕が何も知らなかったのならば。
「…………」
指先から、頭のてっぺんまで、電流が駆け廻る――錯覚を覚えた。
もしかして、いや、そんな、まさか、有り得ない。
有り得ない……、でも……。
脳裏に浮かび上がる、もうひとりの僕。
僕と同じ顔で、ゆるく笑っている。
写真を見たのはたった一度だけ。
けれど、夢で何度も遭遇し、彼は言う。「大丈夫だよメル、君が失敗しても、僕がいるから……安心して」
「君……」
「え?」
声が、掠れてしまう。
まだだ。まだ、聞いてはいけない。
確かめないと。
決定的な違いを、見つけないといけない。
でも、何をぶつければいい。何を差し出せばいい。
「……今度、演劇でも見にいく?」
「私のことを気遣っているんですか?」
「え、なんで?」
「演劇、苦手でしょう? 無理しないでいいんですよ……?」
これは、だめだ。
それなら――
「うん、でも、ネリーがさ……、君と見にいきたいって言うから」
「……私と会ったら、機嫌が悪くなるんじゃ……」
これもだめ。
彼女は、完璧に、彼女として僕の目の前にいる。
僕のことを知っている。
ネリーのことも知っている。
やっぱり、僕の勘違いなのだろうか。ドヴォルザークの曲を間違えたのは、本当に取り間違えただけで――、そうであってくれたら、一番だ。
「ごめん……」
「今日は、変ですね……?」
彼女が控えめに笑う。僕を安心させようと、笑ってくれている。
僕はベッドの縁に腰掛けた。彼女も自然な動作で、僕の隣に座る。その彼女に、僕はまだ、触れることができない。
「ずっと……、聞きたかったことが、あるんだ」
「はい……?」
これを最後にしよう。
僕も、避けていた言葉を、口にする。
純粋に彼女に謝るためじゃなくて、見定めるという、不純な動機で。
「……ミシェルって、どんな男」
「…………」
隣の気配が、強張っていく。
「知って……いるんですか」
彼女の声は、乾いていた。
「うん、……ごめん」
もし――
彼女が、僕の知る彼女であるならば、心から謝ろう。僕が、勝手に、彼女を探ってしまったことを。許可なく踏み込んで、それを伝えもせず、ただ黙り続けていたことを。
そして、伝えよう。
僕も、彼女を受け止めたかったって。
「あの人は……」
彼女は強張ったまま、自分の腕をさすっていた。寒くもないのに、真冬の路地に放りこまれた人みたいに。赤い瞳に暗闇が落ちて、どこを見るわけでもなく、深い悲しみを映し出す。
「……悪魔のような人でした」
亀裂が入った。
「あなたに知られたくなかったのに……」
ああ。
僕の影が、囁いている。
君が失敗しても、身代りになってあげる。
それがきっと、正しいこと。
隣にいる彼女を愛するのは、身代り同士が正しいだろ?
「ごめん……」
誰に謝りたいのか、分からなかった。彼女は傷ついている。それは、演技じゃなさそうだった。
「でも、知っておいてほしいんです……、私にどんな穢れた過去があろうとも、あなたを思う気持ちは――」
「もう、いいんだ」
「え……?」
もう、いいんだよ。
そっちの演技は、もういいんだ。
彼女の気持ちが、僕をすり抜けて、消えてしまう。
その正体が、掴めた。
僕は見定めた。
見定めてしまった。
……やるべきじゃ、なかった。
いつだって僕は――自分から墓穴を掘る。
自分の首を、自分で締める。
坂道が、傾いていく。
斜面を転がるボールは、勢いを増し、もう、僕ではどうしようも出来なくなる。止まらない。転がって、どこまでも、落ちていく。きっと――最後には、ぽっかりと穴が空いているんだろう。僕を待ち続ける暗闇が、今か今かと手をこまねいている。
長い、溜息をついた。
そして、やっぱり、笑ってみせた。
でも、その笑顔は、彼女が褒めてくれた太陽みたいなものじゃなくて、卑屈で、ひび割れているはずだ。
彼女は驚いていた。
僕が、そんな笑い方をすると、思わなかったんだろうね。
僕だって、歪むさ。
元から薄い金属板みたいなもので、圧力を加えられ続けた結果、ぐにゃぐにゃになってしまった。もう、戻りはしない。
「君、クローンだろ」
◇◇◇
一人きりの自室で、モニターを眺めていた。
彼女は、否定した。でも、何度も問い詰めたら、秘密にすることを前提に教えてくれた。彼女は必死だった。だから、僕も、誰にも言うつもりは無いって言った。大体――誰に言えるっていうんだろう。
どうして、世の中は、こんな風になってしまったんだ?
僕は、何で、落ちていくんだ?
這い上がることすら出来ずに、傾き続けた斜面は、上が見えなくなっている。ただ戻りたかっただけなのに。平穏に、笑って過ごしたかっただけなのに。
彼女の過去を知った十二月以来、もう見ないと決めたメールボックスを、開きかけている。本当の彼女の痕跡を、辿りたかった。パスワードは、変わっていなかった。勝手に受信ボックスのメールを開かないように気をつけて、彼女が送ったメールを探った。
最後に彼に送ったメールは、四月十一日だった。件名は、「会いませんか?」――また、彼女は会おうと提案している。
四月、十一日……。彼女が、事故に遭った二日前。
初めて、彼女のメールを盗み見た時よりも、心臓が痛く、苦しかった。眩暈がする。頭を巡るはずの血液が、すべて、足元に落ちていく。くらくらした。
文面に、目を走らせる。
彼女は――
パリに行くと、書いていた。
空港まで、叔父が車で送ってくれるのだと……。
パリに――彼の気配を辿りに、旅行をすると。
僕が、知っている話と違った。彼女は確かにフランスに行くと言っていた。母親がリヨンにいるから、会いにいくのだと。僕も行こうかと言ったけど、彼女は少し困った様子になって、首を横に振った。
僕は、知らされていない。
会いにいく相手が、母親ではなく、その男だと。
聞かされていない。
教えて貰えなかった。
ただひとことも。
本当のことを!
「ミシェル……、お前、……お前!」
彼女は――
返事ひとつよこさないお前を探しに、パリに行こうとして――
死んだ。
「お前が殺したんだ……!」
たった一通でも、お前が返事をすれば……、彼女は死ななかった。
「なんでだよ……!」
彼女はお前にメールを送り続け、心配だと言い続け、お前を大事に思って――
「彼女を返せよ!」
なのに返事をせずに、彼女の気持ちを無碍にし、そして――僕を孤独にした。
「彼女を返せよ……!」
彼女の人生で、一番大事な場所を、掴んだまま――奪い去ったんだ!
「彼女を……」
モニターを握り締めたまま、きつく、唇を噛み締める。
衝動のままに、脆弱な精密機器を壊してしまえれば、よかった。
でも、それすら出来ず、当たり散らしもせず、漏れるのは、嗚咽だけで――力が、失われていく。
「返してよ……」
笑っていようと、思った。彼女がそう望むから。脳無しだって思われてもいい。浅はかで、物ごとを考えられない男だって、上辺だけで、紙っぺらみたいだって思われていても、いい。
それでも――、笑うことで、僕の世界がうまく巡るのなら、そうしていた。
ビッグサックは弱虫だ。何を言われても、怒れない。
だから――、これが、最初で最後の、僕の激情で、怒りだった。
流され、転がり落ちていくだけの、何もないちっぽけなビッグサック。最後の叫びだって――届かない。
振りあげた拳すら、行き場がなかった。
僕はもう笑えない。
これっぽっちも、笑えない。
ドヴォルザークが響いている。
耳を塞いで、叫びを殺し、ただひとり、泣いた。
いいや――
ただ、一匹。 |
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