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 ◇◇◇

 夕暮れのクレベール広場で、ベンチに座っていた。観光客たちが僕の目の前を通り過ぎていく。僕もそれなりの格好をすれば、観光客と何ら変わりない異国の人間だ。それでも、半年この街で暮らしたという気配が、僕に纏わりついている。
 観光客でもなく、街の人間でもない、中途半端さ。クリスマス用にライトアップされたモミの木が、広場のメインである彫像を霞ませている。賑やかな広場に、そして世界に、混じれない。
 明るければ明るいほど、ひとりになっていく。
 僕だって、そう振る舞いたいのに。
 能天気で、ただ笑っていることが許される、僕。それが自分であるべきなのに、もう、戻れないところまで転がっている。

「写真、撮ってもらえませんか?」

 たどたどしいフランス語で、観光客が僕に声をかける。アジア人だった。期待と緊張で一杯になった、小さな目を向けている。くりくりした瞳が、小動物を思わせた。フランス語で通じ合える喜びを、望んでいるんだってすぐに分かった。
 僕はフランス人じゃないのに。
 でも、この人には、わからないんだろう。僕は西洋人という括りで、更にここがフランスだから、そうやって声をかけるのが自然だと思っているんだ。
 僕は、笑いもせず、返答もしなかった。
 やがてその人は、数秒躊躇った後に、「ごめんなさい」と謝って立ち去っていった。逃げるようだった。謝る必要なんてこれっぽっちもないのに。日本人だったのかな。中国人かもしれない。僕だって、アジア人の見分けなんてつかなかった。
 嫌な思いをさせただろう。期待を裏切っただろう。でも、それが今更何だっていうんだ。僕は期待されていない。両親にも、もしかしたら……彼女にも。
 大切な人たちに期待されていないのに、赤の他人に対して、何を、どう、応えろっていうんだ。

 俯く僕のうなじが、ひやりとする。十二月の冷たい滴が、空から零れ始めていた。天候を予測していた雨傘の物売りが、ここぞとばかりに観光客に声を掛け始める。折りたたみ傘一本が、10ユーロだ。本当は3ユーロもしないで買えるのに。
 馬鹿みたいだ。
 雨が、僕の身体を冷やしきってしまえばいいと思った。
 この存在そのものを、消してくれればいい。リセット出来るものならば、そうしたかった。

「濡れますよ……?」

 また、フランス語だった。
 でも、ネイティブと変わらない流暢な発音で、雑踏に失われがちな声量は、聞き覚えがあった。

「うん」

 顔を上げることが出来ない。

「どうしたんですか……?」

 僕の恋人は、やっぱり優しい声をしていた。僕を探しにきてくれたの? そう言ってみたかったけど、言葉にならない。

「あのね……」

 ――あのね、僕、君のことを、色々調べちゃったんだ。勝手にごめんね、怒らないでほしいんだ。図書館で調べ物をしていたらね、六年前の事件を、見つけたんだよ。
 プラハの二つ星のホテルで。
 フローレンツ駅ってところの近くだよね。僕、行ったことないけど。
 君は、かわいそうな目に遭ってしまったんだろ。
 ショックだった。
 目を瞑りたかったよ。
 一番ショックなのは、君なのにね。
 君のは載っていなかったけど、男の名前ですべて分かったよ。
 やっぱり僕じゃ、受けとめられない事実なのかな。
 君の、手首の傷は、それだったんだ。
 ああ、うん――、手首のことも、勝手に見ちゃったんだ。
 君は、新聞の中で、悲劇のヒロインだったね。君のお母さんも、そうだった。相手の男を、許したって書いてあったよ。ひとりじゃ自殺出来ない可哀想な男を、許してやったんだ。
 でもね……
 もっと言えば、その報道が嘘だっていうのも、知ってるんだ。どうしてそんな風に、事実が歪められちゃったのかな。僕は、わかんないけど、ひどいことだよね。
 うん……
 わかってる。
 一番ひどいのは、僕だよ。
 君が彼に送ったメール、全部、見ちゃったんだ。

「……クリスマスツリー、綺麗だよね」
「…………」

 彼女は無言で、僕に傘を傾けていた。もう、冷たい水は、降り注いでこない。ぽつぽつと、黒い傘を雨粒が叩く。とても、不安定なリズムで。

「さっきね、アジア人の観光客に写真を撮ってあげたよ。フランス語で声を掛けられたんだ。英語でいいのにね。最後も、メルシ、って言われちゃった」
「……どうしたんですか?」

 さっきよりも、強い語調だった。でも、咎めるようなものじゃなくて、純粋に、ただひたすら、僕を心配している。
 本当は罵っていいのに。
 僕は答えられなかった。首を、ただ横に振った。

「……悲しいことが、あったの?」

 あまりに、彼女の声が優しくて、泣きたくなった。

「私に話してください……」
「……うん」

 ――あったよ、悲しいこと。
 悲しいことだらけなんだ。
 誰も、見てくれないんだ。
 君がいてくれて、僕は、僕になれたと思ったのに。
 それなのに、君だって、何も打ち明けてくれないんだもの。
 全部じゃなくたっていいんだ。
 でも、ひとかけらでも、彼に伝えた言葉を、僕に向けてくれたら良かったのに。
 僕だって、君の好きな街を、一緒に歩きたいよ。
 プラハには何があったの?
 どこに行ったの?
 綺麗だった?
 ドイツより良かった? ストラスブールより? ロンドンより?
 僕だって……
 君を救いたいよ。
 でも――
 僕が一番、よくわかってる。
 君は見抜いているのかな。
 僕が、頼れない男だって。
 だって、一番悲しかったのは……
 真相を知っているのに、彼に同情の気持ちひとつ湧かなかったことなんだ。
 きっと、僕なら耐えられない。
 そんなひどい罪を被せられて。やってもないのに。
 でも、彼がどんな風に苦しんでいるかなんて、どうでも良かったんだ。
 君が大事にしている傷跡を、共有している彼を、羨んだんだ。
 君の人生の中で、一番の、大きな秘密を知っている彼を。
 僕が知るべきでない過去を、彼は知っている。
 ……どうかしてるよね。
 君にも、彼にも、ひどいことだよね。
 羨むなんて、おかしなことだよね。
 自分勝手だ。
 死を選ぼうとするほどの、辛い出来事を、僕は、こんな浅はかなやり方でしか捉えられない。
 醜いよ。
 どうしようもない。
 僕はこんな人間だったんだ……。

「ちょっと……、友達と、喧嘩しちゃって」
「…………」

 彼女の気配が近づいた。しゃがみこんで、目線を合わせようとしている。あまり人の目を見ない子なんだけど、この時は逆だった。僕は目を見られないのに、彼女の赤い瞳は、僕をまっすぐ捉えている。
 おそろしいほど純粋で、澄んでいる。
 沈黙が長かった。
 嘘だって、ばれているのかもしれない。でも、どうあったって、本当のことなんて言えやしない。

「大丈夫……」

 彼女が慰めてくれる。僕の頬を、指先が掠める。控えめに、触れてくれる。いつだって、触れるのは僕からだった。僕が彼女を求めて、応えてくれるのは彼女の方だった。

「笑ってください」

 冷たい指先が撫でる。いつも、へらへら笑う、僕の唇。

「つらいことがあっても、笑顔を作ってみるんです。それから、上を向いてください。……きっと、少しだけ、楽になるから」

 腹の奥に溜まりきったものが、形になりきれず、嗚咽になる。僕は、背を震わせていた。本当は、そんな風に振る舞える権利なんて、無いというのに。

「……笑うと、気分が楽になると、教えてくれたのはあなたです」

 彼女は、きっと、控えめに笑っている。
 僕は、まだ笑えない。泣いていた。
 みっともなく、みじめに、ちっぽけに、泣いている。

「あなたは、笑っている顔が、とても似合いますよ……」

 ああ、そうだ。
 彼女は、メールで伝えていた。
 僕の人柄を、そうやって解釈していた。
 太陽のように笑うって。暗い気持ちも吹っ飛んでしまうって。
 本当は、ずっと前から、僕の笑顔なんて空っぽなのに。惰性のように染み付いた、笑い顔。習性みたいなものだ。愛想の良さだけが取り柄で、へらへらと、中身のない笑顔を作りあげている。
 それでも――
 彼女が評価した人間になりたかった。
 戻りたかった。
 苦しみなんて知らずに、未来が明るいと信じる、呑気な僕に。
 もうだめなんだ。
 この笑顔は、もう、作りものなんだ。
 でも、彼女が笑ってくれと言うのなら、僕の笑顔が好きだと思うのなら、まだ、出来るはずだ。
 彼女が何も打ち明けてくれなくても、僕に残された価値が、その笑顔なら……
 僕は、笑うよ。

「うん」

 笑って、いられるよ。

「……ありがとう」

 亀裂の入らない笑い方を、それだけを、知っているから。

 ◇◇◇
 
 冬が過ぎて、春になる。
 みんなが、国に戻っていく。
 さよならパーティは豪勢だった。
 ヤコポが実家からワインを取り寄せて、馬鹿みたいに飲んで、アパートのリビングで踊って、騒いだ。マリーアのダンスはかっこよかった。僕のダンスは間抜けだったけど、笑いが取れた。いつもは踊らない僕の恋人も、少しだけ輪に交わった。ポーリーンが、ギターで一曲披露した。お嬢様だってギターが弾けるのよ、なんて笑っていた。彼女のギターに合わせてネインが歌っていた。上手いのに、酔わないと彼は歌わないんだ。

 ◇◇◇

 彼女は、また、彼にメールを書いたようだった。
 その時は、盗み見なかった。
 もう、彼女を探るのはやめようと思った。
 必死に自分を抑えつけて、パーティに没頭している振りをして、彼女が向けるレンズに笑顔を向けた。

 ――道化だった。

 ◇◇◇

 賑やかな、青春の日々が遠ざかる。
 忌々しいロンドンに、戻る日が、やってくる。

 ◇◇◇

 それは、帰国してすぐの出来事だった。
 授業が始まる数日前。
 彼女が、大きな事故にあった。

 ◇◇◇

 授業なんて出たくなかったけど、そんな時でも、親の目を気にしていた。彼らの評価を恐れて、何より一番にしたいことを、後回しにした。僕は授業を受け終わってから病院に通い詰めた。
 不幸な事故だった。
 彼女は、空港に向かう途中で、トラックに巻き込まれた。車は、炎上し、大破した。
 彼女の叔父さんと叔母さんは、即死だったらしい。
 でも、不幸中の幸いと言うべきか、彼女だけは生き残った。
 僕は彼女に言うべき言葉をたくさん考えながら、お見舞いに行った。でも、何度通い詰めても、面会謝絶だった。
 一か月くらい、そんな日々が続いた。
 彼女の容体を問い詰めても、誰も答えてくれない。それほどまで、ひどい状況なんだろうか。毎日、胃を握りつぶされる気分だった。不安で仕方が無くて、授業に出たって何も頭に入ってこない。
 また単位を落とすかもしれない、と思った。

 ◇◇◇

 彼女とようやく会えたのは、五月の終わりに近かった。
 結局病院では顔を合わせられず、退院後、彼女のアパートに向かった。
 一人暮らしをしていた。親族を失ってしまった彼女に、慰める言葉をたくさん用意していたはずなのに、おあずけを喰らいすぎて何も言えなくなっていた。でも、思った以上に彼女は元気そうで、怪我も残っていなかった。
 やっぱり僕は、自分勝手に、嬉しくなった。彼女のきめ細やかな肌も損なわれていなかったし、長い純白の髪もそのままだ。大火傷をして面会謝絶になっていたのかと、そう思ったけど、違かった。

「ずっと面会出来ないんだもの……どうしちゃったのかと思った」
「ごめんなさい。事故のショックで……とても人と話せる状態じゃなくて……」
「……僕が相手でも?」
「…………」
「ごめん、困らせたくて言ったんじゃないんだよ。本当に、僕、心配したんだ」
「ありがとう……」
「うん……」

 僕は彼女の顔をじっと見つめていた。
 彼女はそっと目を逸らした。僕の胸元あたりを見ている。
 よく目を逸らす子なんだ。

「あのさ、お菓子買ってきたんだけど。食べる?」
「じゃあ、お茶を淹れますね」

 事故の話は、極力出さないようにしようと思った。
 せめて僕と一緒にいるときは、怖いこと、辛いことを思い出させたくない。
 でも――

「あ――」

 キッチンに向かおうとした彼女を、僕は衝動で抱きしめていた。
 折れそうなほどか弱い、彼女の身体。優しい石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。

「会いたかった」

 それは、彼女のことを思ってやった行動じゃない。
 僕のためだ。
 僕が寂しくて、孤独しかなくて、怖くて、彼女の存在を確かめたかった。
 ここにいるという事実。消えてなんかない、って。

「君がいない時間は、空白だったよ……怖かった。ひとりぼっちになった気分だった。なんにも手がつかなかったんだ。寂しくて、寂しくて、どうにかなっちゃいそうだった。ごめん……、ごめんね。本当は、僕がしっかりしなきゃいけないのに。君の方がよっぽど不安な思いを抱えてるはずなのに」
「…………」
「でも、確かめさせて……。君が、僕の傍にいるんだって。僕に触れて……お願いだよ」
「大丈夫……、私はいなくなったりなんか、しませんよ」

 彼女は優しく触れた。僕の髪を撫でて、冷たい指先が頬をなぞる。
 クレベール広場で僕を慰めてくれたみたいに、してくれてるんだって思った。

「私……あなたのこと、好きですよ」

 その指先が、僕の唇を避けるようにして顎に向かい、肩へ落ちた。
 ――違和感。

「う……うん。僕も、君が好き。大好きなんだ」

 今の感覚は――なんだ?

「情けなくてごめんね? ……あの時みたいだね」
「…………」

 彼女は答えない。
 広場の出来事を忘れている? それとも、僕があの瞬間を覚えすぎているだけ?

「会えて良かったよ」
「ええ……」

 誤魔化すみたいに、僕は笑った。
 彼女も笑う。でも――何かが違う気がする。
 何が違うんだ?
 それが、明確にならない。漠然とした不安が僕を包み込んでいく。
 彼女の無事を確かめることが出来て、こんなにも嬉しいのに、背筋を這う冷たいものの正体は、何なのだろう。
 控えめに笑う表情も、あまり目を見てくれないところも、何もかも同じだというのに、何かが……引っ掛かる。
 好意を向けられているのに、どこか、感情がすりぬけていくような感じ。
 好きだと言ってくれているその言葉が、信じられない。
 どうして信じられないんだ? 何がおかしいんだ? 理由が説明できない。分からない。

「急に抱きしめてごめん……」
「いえ……大丈夫です」

 どうして、大丈夫、なんだ?
 だってほら――いつもなら――、いつもなら、彼女はどうしていた?
 多分、目を逸らして、恥ずかしそうにして、控えめに笑う。
 そりゃ、事故なんて起きた後なんだ。親族を失っていつも通りになんか出来ないだろう。
 僕を取り囲む形のない恐怖を、払うために。言い訳や理由を探る。
 彼女は僕の腕から抜けて、「お茶、淹れますから」――そう言ってキッチンに向かった。

「…………」

 もしかして……、会わない間に、心変わりでもしたんだろうか。
 首筋の裏に、いやな汗をかく。
 僕がしでかしたことを、知ってしまった?
 彼女の過去を探り、そして、メールを全て見たことを。
 プリントアウトした紙の束は、シュレッダーにかけて捨てている。でも……、どこかで、見落としがあったのだろうか。

「僕……、何か、変なことをした?」

 戻ってきた彼女にそう言った。
 直接的に、聞けなかった。何か、という曖昧な誤魔化し方で、彼女の出方を窺ってしまう。

「いいえ……、何も」
「そう……?」
「はい」

 何かが違う。
 僕と彼女の間に、大きな隔たりがある。
 彼女が無意識にラインを引いている。
 僕が、鈍い、呑気な男だから、気付かないと思っている?

「……交響曲第八番は?」
「え……?」
「ドヴォルザークだよ」

 違和感のひとつに気づく。
 彼女はお気に入りのCDプレイヤーを持っていて、いつも、ドヴォルザークをかけていた。僕はクラシックが苦手だった。演劇も苦手だ。どんなに壮大なものを見せつけられても、眠たくなってしまう。生理的にだめなんだろう。
 でも、彼女が好きなものだったから、勉強した。一緒に聴けるようにと思って、ドヴォルザークだけは、分かるようにしていた。

「いつも、かけてるじゃないか」
「今日は……、気分が、違ったんです」

 彼女は、少し、困ったように微笑んだ。うろたえた様子はなかった。CDケースからディスクを取り出すと、プレイヤーにセットする。
 でも……、

「それは――第九だ」
「…………」
「新世界より……」

 彼女が、ドヴォルザークの曲を、間違えるはずがないのに。

「引っ越したばかりだから」

 置き場所を変えた、とでも言いたいんだろう。
 取り繕うような声ではなかった。いっそ、堂々としていて、そうなのかもしれない、と思わせるほどだった。
 彼女の振る舞いは、とても、彼女らしかった。
 誰が見ても、彼女だと思えるはずだ。
 僕だって、そう思うだろう。
 もし――僕が何も知らなかったのならば。

「…………」

 指先から、頭のてっぺんまで、電流が駆け廻る――錯覚を覚えた。
 もしかして、いや、そんな、まさか、有り得ない。
 有り得ない……、でも……。
 脳裏に浮かび上がる、もうひとりの僕。
 僕と同じ顔で、ゆるく笑っている。
 写真を見たのはたった一度だけ。
 けれど、夢で何度も遭遇し、彼は言う。「大丈夫だよメル、君が失敗しても、僕がいるから……安心して」

「君……」
「え?」

 声が、掠れてしまう。
 まだだ。まだ、聞いてはいけない。
 確かめないと。
 決定的な違いを、見つけないといけない。
 でも、何をぶつければいい。何を差し出せばいい。

「……今度、演劇でも見にいく?」
「私のことを気遣っているんですか?」
「え、なんで?」
「演劇、苦手でしょう? 無理しないでいいんですよ……?」

 これは、だめだ。
 それなら――

「うん、でも、ネリーがさ……、君と見にいきたいって言うから」
「……私と会ったら、機嫌が悪くなるんじゃ……」

 これもだめ。
 彼女は、完璧に、彼女として僕の目の前にいる。
 僕のことを知っている。
 ネリーのことも知っている。
 やっぱり、僕の勘違いなのだろうか。ドヴォルザークの曲を間違えたのは、本当に取り間違えただけで――、そうであってくれたら、一番だ。

「ごめん……」
「今日は、変ですね……?」

 彼女が控えめに笑う。僕を安心させようと、笑ってくれている。
 僕はベッドの縁に腰掛けた。彼女も自然な動作で、僕の隣に座る。その彼女に、僕はまだ、触れることができない。

「ずっと……、聞きたかったことが、あるんだ」
「はい……?」

 これを最後にしよう。
 僕も、避けていた言葉を、口にする。
 純粋に彼女に謝るためじゃなくて、見定めるという、不純な動機で。

「……ミシェルって、どんな男」
「…………」

 隣の気配が、強張っていく。

「知って……いるんですか」

 彼女の声は、乾いていた。

「うん、……ごめん」

 もし――
 彼女が、僕の知る彼女であるならば、心から謝ろう。僕が、勝手に、彼女を探ってしまったことを。許可なく踏み込んで、それを伝えもせず、ただ黙り続けていたことを。
 そして、伝えよう。
 僕も、彼女を受け止めたかったって。

「あの人は……」

 彼女は強張ったまま、自分の腕をさすっていた。寒くもないのに、真冬の路地に放りこまれた人みたいに。赤い瞳に暗闇が落ちて、どこを見るわけでもなく、深い悲しみを映し出す。

「……悪魔のような人でした」

 亀裂が入った。

「あなたに知られたくなかったのに……」

 ああ。
 僕の影が、囁いている。
 君が失敗しても、身代りになってあげる。
 それがきっと、正しいこと。
 隣にいる彼女を愛するのは、身代り同士が正しいだろ?

「ごめん……」

 誰に謝りたいのか、分からなかった。彼女は傷ついている。それは、演技じゃなさそうだった。

「でも、知っておいてほしいんです……、私にどんな穢れた過去があろうとも、あなたを思う気持ちは――」
「もう、いいんだ」
「え……?」

 もう、いいんだよ。
 そっちの演技は、もういいんだ。
 彼女の気持ちが、僕をすり抜けて、消えてしまう。
 その正体が、掴めた。
 僕は見定めた。
 見定めてしまった。
 ……やるべきじゃ、なかった。
 いつだって僕は――自分から墓穴を掘る。
 自分の首を、自分で締める。
 坂道が、傾いていく。
 斜面を転がるボールは、勢いを増し、もう、僕ではどうしようも出来なくなる。止まらない。転がって、どこまでも、落ちていく。きっと――最後には、ぽっかりと穴が空いているんだろう。僕を待ち続ける暗闇が、今か今かと手をこまねいている。

 長い、溜息をついた。
 そして、やっぱり、笑ってみせた。
 でも、その笑顔は、彼女が褒めてくれた太陽みたいなものじゃなくて、卑屈で、ひび割れているはずだ。
 彼女は驚いていた。
 僕が、そんな笑い方をすると、思わなかったんだろうね。
 僕だって、歪むさ。
 元から薄い金属板みたいなもので、圧力を加えられ続けた結果、ぐにゃぐにゃになってしまった。もう、戻りはしない。

「君、クローンだろ」

 ◇◇◇

 一人きりの自室で、モニターを眺めていた。
 彼女は、否定した。でも、何度も問い詰めたら、秘密にすることを前提に教えてくれた。彼女は必死だった。だから、僕も、誰にも言うつもりは無いって言った。大体――誰に言えるっていうんだろう。
 どうして、世の中は、こんな風になってしまったんだ?
 僕は、何で、落ちていくんだ?
 這い上がることすら出来ずに、傾き続けた斜面は、上が見えなくなっている。ただ戻りたかっただけなのに。平穏に、笑って過ごしたかっただけなのに。
 彼女の過去を知った十二月以来、もう見ないと決めたメールボックスを、開きかけている。本当の彼女の痕跡を、辿りたかった。パスワードは、変わっていなかった。勝手に受信ボックスのメールを開かないように気をつけて、彼女が送ったメールを探った。
 最後に彼に送ったメールは、四月十一日だった。件名は、「会いませんか?」――また、彼女は会おうと提案している。
 四月、十一日……。彼女が、事故に遭った二日前。
 初めて、彼女のメールを盗み見た時よりも、心臓が痛く、苦しかった。眩暈がする。頭を巡るはずの血液が、すべて、足元に落ちていく。くらくらした。
 文面に、目を走らせる。

 彼女は――
 パリに行くと、書いていた。
 空港まで、叔父が車で送ってくれるのだと……。
 パリに――彼の気配を辿りに、旅行をすると。
 僕が、知っている話と違った。彼女は確かにフランスに行くと言っていた。母親がリヨンにいるから、会いにいくのだと。僕も行こうかと言ったけど、彼女は少し困った様子になって、首を横に振った。
 僕は、知らされていない。
 会いにいく相手が、母親ではなく、その男だと。
 聞かされていない。
 教えて貰えなかった。
 ただひとことも。
 本当のことを!

「ミシェル……、お前、……お前!」

 彼女は――
 返事ひとつよこさないお前を探しに、パリに行こうとして――
 死んだ。

「お前が殺したんだ……!」

 たった一通でも、お前が返事をすれば……、彼女は死ななかった。

「なんでだよ……!」

 彼女はお前にメールを送り続け、心配だと言い続け、お前を大事に思って――

「彼女を返せよ!」

 なのに返事をせずに、彼女の気持ちを無碍にし、そして――僕を孤独にした。

「彼女を返せよ……!」

 彼女の人生で、一番大事な場所を、掴んだまま――奪い去ったんだ!

「彼女を……」

 モニターを握り締めたまま、きつく、唇を噛み締める。
 衝動のままに、脆弱な精密機器を壊してしまえれば、よかった。
 でも、それすら出来ず、当たり散らしもせず、漏れるのは、嗚咽だけで――力が、失われていく。

「返してよ……」

 笑っていようと、思った。彼女がそう望むから。脳無しだって思われてもいい。浅はかで、物ごとを考えられない男だって、上辺だけで、紙っぺらみたいだって思われていても、いい。
 それでも――、笑うことで、僕の世界がうまく巡るのなら、そうしていた。

 ビッグサックは弱虫だ。何を言われても、怒れない。
 だから――、これが、最初で最後の、僕の激情で、怒りだった。
 流され、転がり落ちていくだけの、何もないちっぽけなビッグサック。最後の叫びだって――届かない。

 振りあげた拳すら、行き場がなかった。

 僕はもう笑えない。
 これっぽっちも、笑えない。
 ドヴォルザークが響いている。
 耳を塞いで、叫びを殺し、ただひとり、泣いた。

 いいや――
 ただ、一匹。

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