へらへら笑っていれば、八割のことはうまくいくんだ。対処できない残りの二割は、はなから僕の手には負えないことばかりで、そいつが僕の限界だよ。
 今はわかってる。わかりたくもなかったけど、現実は僕の意志なんか欠片も認めてくれない。強引に子牛の口を開かせて、欲しくもない枯草を詰め込んでしまう。劇薬まみれの腐った現実を、ほら、おまえの餌だぞと、逃げる暇もなく、叩きこむ。
 それでもビッグサックは臆病だから、吐き出せないんだよ。出来ることと言えば嗚咽を漏らす程度で、やがて腹が膨れ、動けなくなり、自分が餌になる。
 この話をしたら、きっと――
 誰も、僕に、夢なんて見られなくなるだろうね。

  The big sook of berk

 僕の恋人はリストバンドを外さなかった。女の子が好みそうな、きらきら光るブレスレットでもなく、ただの無地の布。彼女の白い手首に不似合いだった。たとえば、マリーアみたいに健康的に笑う人だったら、何の不思議もなかったんだけど。
 ミスマッチ、っていうやつだ。だって彼女はテニスもしないし、ジョギングだってしない。僕は、一度だけ、どうしてリストバンドを外さないのか聞いたことがある。彼女は控えめに笑って、「大事なものだから」と答えた。僕は笑いながら、「そっか」――それだけを言って、追求をしなかった。
 彼女はほっとしたようだった。嘘が苦手なんだろう。それから僕が、何も疑わない男だと、信じているのだろう。深いところまで考えず、探らず、踏み込まない男だと。
 僕の部屋は、一人向けだ。ミニチュアみたいに小さな部屋だったけど、ロフトがあった。置かれているのはセミダブルのベッドで、部屋代は500ユーロ。彼女の部屋の方が、もっと小さい。僕と彼女がこういう関係になってから、大抵の夜は、ロフトのベッドが二人の空間になっていた。
 ロフトって面倒でね、寝ぼけながら起き上がると、確実に頭をぶつけてしまう。僕の、そういった間の抜けたところが、彼女のお気に入りみたいだった。頭をぶつけると、彼女は少し楽しそうにした。それから心配をしてくれる。僕は照れる。それを、わざとやったこともある。

 鎧戸を完全に閉めてしまうと、朝になっても真っ暗だ。その夜は、隙間を空けておいた。雨じゃなかった。そういう日を選んだから。ストラスブールの深夜は孤独になるほど静かで、時折、ゴミ処理業者の車が、ぼうぼうと音を鳴らして道を走る。オレンジのライトが瞬いて、刃のように、すっと、部屋に入りこむ。重たいエンジンと耳鳴りが混ざりきったところで、月明かりを自覚出来るようになる。シーツよりも際立つ純白の髪が、脆弱な光を受け止めていた。僕は、確か、数分近く彼女の髪を見ていた。
 寝相の良い人だった。だからかな、彼女は寝ぐせをつけないんだ。髪質の問題かもしれない。僕の寝起きったらひどいものだからね。彼女は僕の方を向いて眠っている。細い指を唇まで持っていって、寝息をたてている。その仕草は、安らかに見えて、寂しそうでもあった。
 僕は彼女の名前を囁いて、目覚めさないのを確認した。彼女の手首に触れる。こそどろみたいな気分だ。なんて狭量な男なんだろうと、自覚する。でも、彼女のことが知りたかった。
 彼女が、僕に教えてくれないことを。
 僕では、受けとめられないと、思っているはずのことを。
 事実そうだとしても。

 ――リストバンドの下には、傷があった。皮膚がめくれて、元の肌と融合しきれなかった跡。「大事なものだから」彼女はそう言った。僕はわかっている。大事なのは、リストバンドじゃなくて、この傷跡だって。
 僕は囁いた。
 決して音にならない声で。

「ミシェルと死にたかった?」

 ◇◇◇

 十二月のキャンパスは、身を切るほどに冷たく、人気もなかった。バカンスの期間だからだ。いつもは学生で賑わうテラスも、まばらだった。
 僕は辞書を引きながら、フランス語の翻訳をしていた。エラスムスの学生としてフランスに渡ってから、半年以上が過ぎた。日常会話はほとんど覚えていたけれど、分からない単語はまだまだ多い。前後の文脈で何となく想像はつく。でも、一字一句逃したくはなかった。穴空きのパズルを必死で嵌めこむように、言葉を探す。口語的な表現になると、ピースすら失ってしまう。そういった瞬間は、迷路に放りこまれた気分になる。言葉のやり取りは、時に、辞書にすら載っていない。それでも、意味を誰かに聞くことは出来なかったから、類似しそうな単語から想像し、ピースの形を無理やり作っていく。
 時間のかかる作業だった。

「なあに、お勉強?」

 香ばしいコーヒーの匂いを引き連れて、声が降ってくる。母国語を話す時もそうなのかもしれないけど、彼女が話すフランス語はゆったりとして、聞き取りやすかった。

「そんなところ」
「さすが」

 さすが、熱心ね――という意味なんだろう。「君もね」そう言って顔を上げた。
 ポーリーンだ。誰もがほっとするような、穏やかな微笑を浮かべて僕を見下ろしている。グラシアス・スマイル。彼女に対しては、慈愛に満ちた、と形容することが出来る。きっと、心から。

「休暇中に大学に来るなんてさ。旅行前じゃなかった?」

 彼女はオランダ人だ。でも、ブロンドを靡かせるんじゃなくて、夜空を飲み込んだ黒髪がよく似合っていた。おっとりとした表情なのに、エキゾチックな色気を感じる。
 ミスマッチが、魅力になっている。僕の彼女が、リストバンドをつけている――それとは意味が違う。

「アルザス語の特別講習があるの」
「アルザス語?」

 翻訳中のプリントを、自然な仕草で隠していた。ポーリーンはプラスチックのコップに唇を近付けて、結局飲まずに、視線で対面の椅子を見る。それから首を傾げた。嫌味じゃない可愛い仕草だった。僕は頷いた。

「教授が変わったんだ」

 彼女は吐息混じりに言って、椅子に座った。目線の高さが一緒になる。アングロサクソンの癖に、僕の身長は平均に満たない。たまに、コンプレックスにも思う。目線が合うと、どうしても、落ち着いた気分になってしまう。「この土壇場の時期に……」僕は残念そうな声を出した。

「ほんとよ、もう。びっくりしちゃう。教授ね、アルザス語で授業をするんだから」
「え……、本気で?」
「本気で」
「フランス語は、全然?」
「一切ナシ」

 それは、何て言うか、お気のどくに……。そんな言葉を飲み込んで、冷めきったカフェラテに手を伸ばした。
 僕たちが留学先に選んだストラスブールは、フランスだ。フランス、アルザス地方、ストラスブール。でも、アルザスという地方は、複雑な歴史が絡んでいる。過去にはお隣ドイツの国として存在し、フランスとの間を行ったり来たりしていた。だから、この地方には、ドイツの方言として分類されてしまうアルザス語がある。
 僕には分からない。ポーリーンもそうだろう。

「デモとか起こしたらどう?」

 フランス語の授業ですら大変なのに、まったく違う言語で教鞭を取られたら、理解出来るわけがない。留学生に対して、あまりに手ひどい仕打ちに思えた。
 僕の気楽な提案に、彼女はプラスチックの縁を噛んだ。苛立つポーズも、彼女がやると威圧感が無かったし、下品でもなかった。

「教授のクラス、エラスムスの学生がほとんどいないの」
「何の専攻?」
「人文学」

 地元で暮らす学生にとっては、苦にならないのだろう。ここはフランスだけど、それより前に、アルザスなのだから。ヨーロッパはそういう場所だ。国のアイデンティティと、地方のアイデンティティが、どちらも色濃く存在する。

「大変だね……」

 人文学をアルザス語でやっても、経済学をやっぱりアルザス語でやっても、どっちにしろ大変で、僕の同情染みた返答は、質問に対して意味を持っていなかった。でも、ポーリーンは満足したようだった。

「ほんと、いっそのことドイツ語でやってくれたらいいのに」

 アルザスのアイデンティティを誇る教授が、怒りそうな発言だ。僕は苦笑した。

「ドイツ語、わかるんだ」
「知らなかった?」
「知らなかった」

 ポーリーンは少しだけ、肩を竦めた。自慢するようなやり方じゃない。

「ネインは、元からフランス語がわかるのよ。ずるいよね、私、フランス語の方は全然だめだったな」
「でも君、英語も出来たよね。すごいな」
「そう?」
「すごいっていうか……うらやましい。脳のつくりが違うのかな、ってさ」

 彼女はまた肩を竦める。そんなことないよ、と言っているような仕草だ。人種が入り混じったり、移民の多い地方は、彼女のように数カ国語話せる人が多い。
 僕の様子を見て、いたずらっぽく笑っている。少しどきっとした。そんな笑い方をするのは卑怯だ。

「なんだかメル、さみしいモードね? 彼女と何かあった? ポーリーンおねえさんが慰めてあげよっか」
「そんなんじゃないって!」

 やっぱりまた、どきっとしてしまうけど、そんなの僕が悪いんじゃない。

「第一、お姉さんってなんだよ」
「歳的にはそうでしょ? でもね、もしメルが年上だったとしても、こんな風に思うだろうな」
「こんな風?」
「弟っぽいかんじ」
「ええー……」

 僕、長男なんだけど。そんなに頼りなさそうなんだろうか。
 そういえばネリーもよく言ってた。おっちょこちょいなのが珠にきず、だって。そうなのだろうか。
 でも、もし、道端でばななの皮が落ちてたとして、転ぶのは僕じゃなくてポーリーンなんじゃないの?
 いや……、拾ったあとにお猿さんの所在を確かめるかもしれない。とにかく、彼女は、なんだかファンタジーなんだ。

「じゃあ、どうしてさみしいモードなの?」
「別に寂しいってわけじゃないけど……、うん、そうだなあ」

 彼女の穏やかな微笑みを見ながら、少し話してもいいなって気になっていた。やっぱり、僕の心は彼女に寄り掛かろうとしたいのかもしれない。

「たぶん、僕の脳みそは、もう新しい言葉を受け付けないんじゃないかなって。容量不足なんだ。君はスポンジみたいに吸収して、今はもうフランス語だってぺらぺらになったのに、僕はまだボイスレコーダーを持ち込んでる」
「教室に?」
「そう……」
「聞き逃した講義があったら、メルにお願いすればいいのね!」
「あのねー……。別にいいけどさ、君と僕って授業被ってなくない?」
「メルが私と同じ授業を受ければいいのよ!」
「すごくプラス思考だね!?」

 ただし彼女のプラスに限る。

「ま、ま。それは冗談だけど……」

 冗談でよかった。

「それで、私がうらやましいんだ」
「まあ、……うん」

 僕の母国イングランドも、地方によっては方言があるけど、イギリスはいつでもイギリスだった。島国の特性かもしれない。隣の国から強制的に文化が入りこむこともなく、クイーンズイングリッシュはずっと独立している。
 ストラスブールに来るまで、英語しか知らなかった。だから言葉の飲み込みも、ポーリーンに比べたら格段に遅い。

「メル君はちょっぴり、疎外感みたいなのを感じちゃってるのね」
「くん、ってやめてよ」
「じゃあメル少年!」
「どっちもやめて! 少年って歳じゃないよ、もう!」
「ふふふ。……あのね」

 彼女は少し、身を乗り出した。噛んで言い聞かせるような口ぶりだった。

「コミュニケーションツール、って考えてみたら、確かに大陸出身の方が都合がいいよね。でも、文化だって考えたら、私はメルに追いつかないんだよ。英語はたくさんの人が話せるけど、本物はあなただけ。あなたの持つ文化と言葉は、私には手に入れられないもの」
「でも……」
「たくさん言葉を知ってることだけが、素晴らしいんじゃないわ。私があなたの発音に限りなく近づけても、本物にはならない」

 少し黙り込んだ。一理あるとは思う、けど――僕は言葉の学者になる予定はないのだし、コミュニケーションツールで十分だ。僕の出身地が違えば、留学先での生活も、きっと楽だった。単位の心配も、なかった。フランス語だって、すぐに覚えられたはずだ。このプリントも、わざわざ印刷する必要すらなく、さっと目を通すだけで理解出来たに違いない。
 でも、僕は彼女を見て、少し笑ってみた。

「もしかして、慰められてる?」
「慰めてる、慰めてる」
「あはは……」
「おねえさんって呼んでもいいんだよー」
「やめとく」

 顔を見合わせて笑った。根底にある不安は何も消えてないけど、仲間とこうやって話せる時間は、幸福だと思う。その時、彼女が視線を落とした。話に気を取られて、プリントの文面が隠しきれていないことに、気付いていなかった。

「それ、メール?」

 背中がひやりとした。しまった、と思う。狼狽を表に出さないようにと、笑い続けた。とりあえず笑うしか、間を作る方法を知らなかったんだ。苦笑みたいになった僕の表情を、彼女がどう捉えたか分からない。勘ぐられてないことを、ただ祈った。

「フランス語の勉強にね、メールフレンドを作ったんだ。生のフランス語って難しいでしょ? 言い回しとか、ほら、わかんない時あるし……、だから僕が英語を教える代わりに、向こうがフランス語で……」

 喋り過ぎてないかな。
 わからない。
 咄嗟の嘘は、妙に説明臭い気が、自分でもした。
 不自然にならないようにプリントを束ね、彼女の目に文面が映らないようにする。

「フランス語なら、彼女に教えてもらえばいいのに」
「だって、そういうの……恥ずかしいだろ」
「メルも男なのね」

 彼女は笑ってくれた。
 僕も恥ずかしそうに笑った。
 内心のやましさを押し殺しながら。ただ、彼女に疑われなかったことに、メールを読まれなかったことに、安心していた。

「じゃあ、お手伝いはしない方がいいね。私、行くよ」

 気が利いた人で良かった。
 僕は頷いて、彼女を見送ろうとした。でも、呼びとめた。

「旅行に出る前にさ、ミルクを使いきっておいてよ。賞味期限、切れそうなんだ。冷蔵庫に入ってる」
「私、腐りそうなミルクなんて買ってないけど?」
「ヤコポのだよ。飲まないまま帰国したんだ」

 ポーリーンは呆れていた。

 ◇◇◇

 ネインとポーリーンは、休暇中に旅行に出る。ヤコポとマリーアは祖国イタリアに一時帰国中だ。僕も、恋人を旅行に誘っていた。
 行き先は、チェコのプラハを提案した。でも、断られた。そうだろうと思った。僕の要望にいつも合わせてくれる彼女が断るなんて、よっぽどのことだ。彼女はわかってないだろう。それがとっても不自然だって。
 彼女はドイツに行きたいと言った。僕は優しくて明るい恋人らしく、二つ返事でオーケーした。二人でドイツのパンフレットを買って、行きたい場所をカフェで話しあった。
 クリスマスの時期だ。ストラスブールの飾り付けも目に鮮やかだったけれど、ドイツもまた趣が違うんだろう。彼女はクリスマスマーケットに行きたいと言った。僕はシュトレンが食べたいと言った。間の抜けた僕の返事に、やっぱり微笑んでくれた。

 二泊三日の短い小旅行から戻った夜に、彼女はメールを書いた。アパートにある共同のパソコンで。彼女がシャワーに行った隙に、僕はパソコンの前に座った。
 USBを差しこんで、彼女のアカウントに接続してメールをコピーする。ものの五分とかからなかった。

 彼女は知らない。
 僕だって知らなかった。
 僕がこんな男だって。

 きっかけは、ただの偶然だよ。
 十月だった。
 彼女はホットメールを使っていて、僕もそうだった。自分のメールボックスを開こうとウェブサイトに繋げたら、僕じゃないアドレスで立ちあがってしまった。彼女が、IDとPasswordを外し忘れたんだ。見るつもりなんて無かったけど、悪い虫に取りつかれてしまった。そういう時って、誰しも、あると思う。弁明にはならないって分かってはいるけど、勝手に開いてしまったんだ。仕方がないじゃないか。
 その時まで、特に、何も思っていなかった。送信ボックスをクリックしても、すぐに閉じるつもりだったんだもの。IDとPassword、外し忘れてたよ。不用心だから気を付けた方がいい、あ、でも、僕は見てないからね――そんな風に言うつもりもあった。
 でも、知らない男の名前が、宛先にあった。ミシェル。多分、ありきたりな名前だろう。
 どきどきした。フランス人の名前だから、教授宛かもしれないし、大した内容じゃ無い――そんな風に思いながらも、メールを開いていた。
 じっくり読む時間も、心の余裕もなかった。
 やっぱり、フランス語だった。
 冷静じゃなかった。
 彼女のメールを勝手に見ているというやましさ。共同生活を送るアパートで、誰かが僕の行為を見ているんじゃないかという怯え。彼女が、知らない男にメールをしたという事実。それらすべてが、僕を混乱させ、思考をぐちゃぐちゃに乱し、読解力を失わせ、読めるはずのフランス語も、ほとんど理解できなくさせた。
 ただひとつ、飛び込んだ言葉。

 ――会いませんか。

 後はもう、衝動だった。同じ宛先のメールを洗いだし、全てノートパッドにコピーする。冷静じゃない癖に、嘘みたいに手際が良くて、思い出すと自分でも唖然とする。そんなところで、夢中になって、どうするっていうんだろう。
 それでやめておけば良かったのに、ログアウトしようと思った寸前に、思いとどまってしまった。僕は、下書きのフォルダを開いた。
 彼女のセキュリティの甘さに、そして、僕がそれを見つけてしまったことに、泣きたくなった。下書きフォルダには、メモ用として送信先のないメールが残されていた。大学のネットワークに繋げるための、携帯の、Paypalの、ありとあらゆる場所で使えるIDとPasswordが並んでいる。
 これじゃ、意味が無い。例えウェブサイトによってパスワードを変えたとしても、ひとつに纏めてしまったら、てんでだめだ。でも、そのことを指摘出来ない。誰かが君のIDとPasswordを盗んでいるよ――なんて、僕が言ったら笑い話じゃないか。君の恋人がこそどろなんだ、そう告げるようなものだ。
 並ぶ文字列の中にホットメール用のパスワードを見つけると、頭に叩き込んで、やっとログアウトした。
 ノートパッドにコピーしたメールは、その後で、USBに移した。――後で、印刷して、読むつもりだった。

 ◇◇◇

 いつから、こんな人間になってしまったんだろう。
 僕の自己評価と、他の人が見る僕は、一致しない。十八歳までの明るくて呑気な僕が、今でも表でのさばっている。でも、それでいい。その方が印象だって悪くない。
 十八までは、不安なんてひとつも無かった。こう言っては馬鹿らしいだろうけど、本気で、世界は僕を愛していると思っていた。好きなことをやって過ごせたし、父さんも母さんも、良く褒めてくれた。僕は父さんの会社を継ぐつもりだった。特に夢も無かったから、両親が望むのならそれで良かった。
 出来の良い息子だったと思う。母さんも鼻が高そうだった。僕は嬉しかった。本を読んで、適当に昼寝をして、妹のネリーに付き合って出かけて、勉強も苦じゃなくて。ありふれた毎日で、平和だった。不満もなければ、刺激もない日々。僕はそのまま、何事もなく一生を終えるのだと思っていた。

 最初は、些細なミスで始まった。苦手な言語学で単位をひとつ落とした。大したことじゃないと思っていた。五年や六年、あるいは七年と大学に籍を置くのは珍しいことじゃないし、たった四年で学位が取れる方が出来過ぎている。
 でも――
 父さんも母さんも、「出来過ぎている」方が、普通に思っていたんだ。単位を落としたことよりも、二人の失望の度合いに、面食らった。そして初めて、焦燥を覚えた。
 僕は重大なことを、しでかしたのかもしれない。
 その焦りが、不安が、僕の背後にぴったりと張り付いて、せっついた。どんなになだらかな下り坂だって、ボールを置いたら転がり落ちていく。そして徐々に加速し、やがては止まらなくなる。
 まさにそれだった。
 落とす単位は、増えていった。
 両親が下す僕の評価も、転がり落ちていった。
 坂道を登る方法を、知らなかった。
 挫折から這い上がる方法が、わからなかった。
 僕はあまりに、当たり前の平穏に、順応しきっていた。
 無防備な子牛だった。
 ビッグサック、反抗すら出来ない、怯えた弱虫。

 加速する。
 重力に、抗えない。
 勾配がきつく、傾いていく。
 押してはならない僕の背を、有り得ない言葉が、どんと叩く。
 落ち始めた僕に、父は告げた。
 この世界に存在する、恐るべき真相を。何の問題もなく、家族全員で笑い合っていた日々にも、毒が潜んでいたということを。僕が今まさに、断頭台に頭を突っ込んでいるのだと、知らされる。
 「交換」という制度。
 僕には代わりが存在して、這いあがれないほど落ちてしまった時に、実施される。僕という人間は死に、けれどメルは生き続ける、他人の希望であって、僕の絶望。
 性質の悪い冗談ではなかった。父さんは写真を見せた。
 そこには、僕にそっくりな、クローンが写っている。
 もし――交換が実施されても……
 誰も、疑わないだろう。
 彼が、僕じゃないなんて。

 僕はエラスムスに志願した。フランスへの留学だ。坂道をどうにかして、ひっくり返したかった。元に戻りたかった。能天気に笑い、何も知らずにのんびりと過ごせた、あの時代の僕に。
 きっかけが欲しかった。
 でも、一番は、逃げ出したかったんだと思う。
 あの家から、父さんから、父さんの言うことしか聞かない母さんから。僕に評価を与えてくれないロンドンの大学から。
 留学先で見つけたアパートは、同じエラスムスの学生が共同生活を送っていた。人種、思想、価値観の違いを飛び越えて、同じ食卓でご飯を食べ、当番制にして掃除をし、語り合い、時に若者らしくバーに行ったり、踊りに行ったりした。広場で夜を明かしたこともある。
 僕が取り戻したかった日々が、そこにはあった。
 勉強にも身が入ったし、恋もした。幸福なことに、両想いになれて、フランスに渡ってたった一か月で恋人が出来た。控えめで、言葉の少ない子だったけど、彼女と一緒にいると、何でも出来るような気になった。
 十八の頃の、恐れを知らない青年に戻れたのだと思った。僕が望む、僕という人間に。そしてきっと、周りも望む、僕に。

 でも、一度転がり落ちたものは、同じ場所まで戻らない。エラスムスの日々は本当に充足していた。かけがえのない毎日だった。それなのに、時折夢に見る。あんなに穏やかだった母さんが悲しむ顔を。僕を自慢の息子だと言ってくれた父さんが、掌を返したように、クズだと罵る声を。
 僕と同じ顔をした、人間の姿を。
 悪夢だ。
 染み込んだ恐怖は、どうやったって拭い去れない。
 ひとりで眠るのが、怖くて仕方がなかった。

 ◇◇◇

 翌日、新しくプリントアウトした彼女のメールを、図書館で翻訳した。元々、僕は良く勉強をする方なんだ。だから、疑われなかった。彼女はやっぱり、僕と小旅行に行った話を持ち出していた。
 声に出さず、彼女の紡ぐフランス語を、なぞっていく。唇を動かして、その発音を想像する。彼女が言っているみたいに。顔を近付けないと、時に聞き取れなくなるほどの、か細い声。けれど繊細で、流暢で、美しい発音を紡ぐ舌。

 ――でも私は、やっぱりプラハが一番好きです。
 ――彼氏と旅行に行く話があって……、チェコも候補に挙がったんです。
 ――私はわがままを通して、ドイツにしてしまいました。
 ――だって、プラハはあなたの街ですから。

「あなたの街ですから……」

 掠れた声で、呟いた。

「それで……ドイツにしたんだ?」

 馬鹿みたいだ。
 わかってるんだ。彼女が僕を、きちんと愛してくれてるって。だって、彼女は僕の傍で、楽しそうに笑ってくれる。間違っても、これが浮気のメールだなんて思っていない。
 僕がネリーにちょくちょくメールをするように、大切な人に送るメールの一部に過ぎない。
 わかってるんだよ。
 でも……
 プラハが彼の街なら、僕と君の街は、どこになるんだ。
 君の一番好きな街を、僕は、歩いちゃいけないのか。
 馬鹿みたいだ。
 結局、何も出来ないでいる。本当は、頭を抱えて叫んでしまいたい衝動があるのに。彼女に打ち明けることもなく、こそこそと、メールを盗み見て、ひとりで懊悩している。
 僕が言った。プラハにしないかって。試したようなものだ。彼女のメールは僕の言葉から導き出されたもので、つまり……僕は自分で自分の首を絞めている。

 六年前。プラハ。あなたまで死なせようとした。
 罪。濡れ衣。
 本当に救われた。

 それは、十月に彼女が送ったメール。連なる言葉の数々だ。僕は、彼女が六年前、プラハで何かしたのを知っている。彼女のメールから、勝手に、様々な情報を得ていたんだから。
 プラハを旅行先に提案することで、彼女の過去に触れられないかと思った。正確には、僕に、何かを教えてくれるんじゃないかって。
 イギリスの大学から来た彼女。でも、本当はフランスの産まれだった。彼女はそのことすら教えてくれなかった。肌も髪も白く、そして色素の薄い瞳を持つ彼女は、人種の読めない不思議な魅力があった。アルビノという単語を知ったのは、彼女と知り合ってからだ。
 アルビノであったがために、彼女のラテン人としての顔立ちを見抜けなかった。僕は馬鹿正直に、彼女もイギリス人だと思っていた。
 フランス語が上手いのも頷ける。
 だって――、そっちの方が、母国語じゃないか。

 僕は、どこまで勝手に、踏み込むつもりなんだろう。
 でも、土足じゃない。足音すら殺して、入りこんだ痕跡も残さない。彼女に聞く勇気もなく、一方的に知る。それだけ。
 それしか出来ない。
 本当は、打ち明けて欲しかった。
 でも、彼女は、僕には受け止められないと、その男に言っている。
 僕には重すぎると。
 その男だけが知っている彼女の過去。僕には教えてくれない。
 彼女は、大事な人が二人いると言った。
 一人は彼。一人は僕。
 どうして――一人じゃないんだろう。
 どうして、二人になるんだろう。
 彼女の恋人は僕なのに、どうして僕に話してくれないんだろう。
 彼女に罪はない。でも、知らないんだ。
 好きな人に、頼られないってことが――
 どれほど、悲しいことなのか。
 愛されていても、他の男を頼っているという事実が……、どれほど僕を打ちのめすのか。
 わかっているんだよ。そんなつもりじゃないって。でも、落第者の烙印を押された僕は、どんどん卑屈になっていく。純粋な彼女が並べる言葉、それらが、勝手にねじ曲がり、心臓を傷つける。
 僕は、彼女を支える器量もなく、頼ることも出来ない、軟弱者だって。両親と同じように、彼女も認めてくれないって。そんな風に思っちゃだめなのに、思考ばかりが、沈んでいく。
 どうして、彼にメールを送るんだろう。
 彼は一通も、返事をよこさないのに。
 六年前、彼女と彼の間に、何があったっていうんだ。

 いつも、僕は、自分の首を絞めてしまう。やめれば良かったのに、送信ボックスを開いてしまった。そのままログアウトしていれば良かったのに、思いとどまって、下書きのメモを見てしまった。
 そして今は――、閃いてはいけないことを、思いつく。
 もっと、良い方向に勘が冴えればいいのに、いつだって裏目に出る。気付いた時にはもう遅く、沼地に足を突っ込んでいるようなものだ。引き抜いたって、足にこびりついた泥は、払えないんだ。
 今いる場所を、再認識する。
 ストラスブールで一番大きな、市立図書館。
 やめろと警鐘を鳴らすのに、僕の足は勝手に動き出す。
 そう、過去の新聞が山積みになっている本棚に。
 僕の勘なんて、当たって欲しくなかった。死のうとした、濡れ衣、罪……そんな言葉から、事件を連想するなんて、単純にも程がある。彼女の気配が、公に晒されているわけがない。そう信じているのに、六年前の新聞を、次から次へと、探っていた。


   
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