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「帰りますから、絶対帰りますから」
「おまえ無免許だろ?」
「……ペーパードライバーです」
「運転させるわけないだろ、観念しろよう」
自称工場員二人のやり取りを聞きながら、俺は呆然としていた。
ノエミが連日80km――いや、往復で160km走り、ストラスブールまで通っているとは知らなかった。それならいっそアパートを借りてしまった方が、ガソリン代も考えたら安い気がする。
だが、そうしない理由が、家に着いて分かった。
本当に家だったのだ。アパートではなく、一軒家。
「ど……どういうことなんだ?」
呆けた質問になっていた。酔っ払いがまともに答えてくれるか心配だったが、案外と、ノエミもトマゾも陽気になっているだけで、足取りはしっかりしていた。
「親戚がさ、貸してくれてんだ。いいだろ? ほとんどムリョーなんだぜ、ムリョー」
「……お嬢様だったのか?」
「まさかあ! 私は超貧乏だ! いろんなやつの脛をね、齧りながら生きてんだ」
「それは……」
「ん?」
「……すまん、なんでも」
それは許されるのか? と、また聞きそうになっていた。許されるも何も、享受出来るものは受けとるべきだ。俺は少し、おかしくなっている。
結局すったもんだの挙句、ノエミの家に向かう話になっていた。石造りの古風な家で、もしかしたらノエミの親戚は、新築の家でも購入して出ていったのかもしれない。彼女はうまくおこぼれに与ったのだろう。
「ままま。入りたまへよ」
彼女は始終上機嫌だった。ふと、黒いオーラを感じて振り返る。ミシェルが何もかもを呪いそうな目をしていた。
ぞっとした、が――面白くもあった。
死人みたいな目以外も出来るんじゃないか。よっぽど人間らしいと思った。こういう、何を考えているのか分からないタイプの仮面を剥ぐのは、普通なら一苦労する。でも、ノエミの世界に入り込んだら、それすらも簡単に思えた。悪趣味かもしれないが、弄ってやりたい気分だった。
ノエミの家に上がりこんで、リビングに向かった。トマゾはさっきの店で、リースリングのワインをボトルごと買ってきた。ノエミはテレビの上からフォアローゼスを取った。ウィスキーを常備しているなんて、家でも飲むタイプなのかもしれない。しかし、栓は開けられていない。誰かを招いた時に呑む酒なのだ、きっと。
それぞれソファに座ったが、ミシェルは借りてきた猫のようだった。
「自分ちみたいに寛いじゃってよ、私らの仲じゃん」
うち二名が初対面なのだが、旧知の友のごとく彼女は振る舞った。ワイングラスもなく、あるのはまちまちのコップだった。子供が好みそうなファンシーな絵柄が描かれている。それを囲む三人の男――シュールだ。
「……これはないだろ」
「中身は変わんないんだ、いいだろー?」
ノエミは俺を見ないで上機嫌にワインを注ぐ。「センスが悪い……」と、禄に散髪屋にも行ってなさそうなミシェルが言う。お前が言うなよ、という気分だ。
「なんだよみんなしてさ。ひとつ1ユーロだったんだぜ」
「おれはいいと思うな、このネコかわいいじゃないの」
「クマだぜ、それ。目、大丈夫か?」
分かりやすいおべっかを使ったトマゾすらも、黙り込む。やがて四つのコップにワインが行き渡った時、ミシェルが口元を歪めた。
「待ってください、私は飲みません」
「かたいこと言うなよう、女の子の前だぜ。飲め、飲め」
「飲めないのです」
「飲め! 口移しでやられたいか!」
「気でも違ったのか!?」
「おれはいつでも気が違ってる!」
コントみたいだ。トマゾがミシェルを抑え付けて酒を強要している。二人の上下関係は知らないが、もしトマゾの方が先輩なら立派なパワーハラスメントだろう。助けないけど。
大の大人のじゃれあいを見ながら、ノエミが身を乗り出した。
「口移しなら女の役目だろ? 私に任せろ」
「お断りします!」
ミシェルは防戦一方だ。お断りされたノエミは、別に不服そうでも何でもなく、新しい嫌がらせを思いついたとばかりに笑った。
「女がだめなら男の美形か? だそうだぜ、君の出番だ」
彼女が指したのは俺だった。一瞬吹きかけたが、寸でのところで堪える。
「俺は美形じゃないだろ。メルみたいな顔なら、文句なしにそうなんだけどな」
あいつの下まつ毛の長さを思い出す。少年らしさが抜けていない顔立ち、とも言えるし、単純に女顔だとも言える。
ノエミは既に二杯目を注ぎながら、首をかしげた。
「メル? 誰それ」
「ノエミは知らないか。アパートで暮らしてる仲間だよ、大学も一緒だから会おうと思ったら会える」
「ふうん? じゃ、そいつ連れてこいよ」
「気楽に言うけどな……」
ミシェルの悲劇を尻目に、普段通りの会話に入りかけたときだ。
……鈍い音が響いた。
「お、おま、いま、なんで殴った? なんでおれを殴った?」
「正当防衛です」
攻防が逆転していた。グーでやったらしく、ミシェルは痛そうに拳をさすっていた。飲酒作戦は失敗か。俺は苦笑いを浮かべた。
しかし。
「おおおー!」
ノエミの歓声が起こる。
拒み続けていたくせに、ミシェルはコップになみなみ注がれたリースリングを、一気に飲み干したのだ。
表情のない仮面が徐々に剥がれていく。苦しそうに眉間に皺を寄せて、袖で口元を拭った。噎せそうなのを堪えている様子だった。
「ついに飲んだな、いけるじゃないかあ」
殴られたトマゾが笑っている。
「飲んで忘れます、何もかもね」
……忘れたいほど嫌な状況なのだろうか。
「いいじゃん、忘れるまで飲んじまおう! 乾杯しようぜ!」
既に三杯目を口にしているノエミが、改めて乾杯の音頭を取る。
「はは……」
俺はとりあえず笑っていた。
こうして――
奇妙な組み合わせの飲み会が、始まったのだ。
◇◇◇
「だからマヒーンドラが言うんだ。庭で石油を掘り当てたから結婚しようって」
深夜を過ぎると、リースリングもフォアローゼスも空になっていた。俺の目もぼんやりしていた。それでも意識が落ちきるところまではいかない。ノエミが買い溜めしておいたウィスキーと、ピクルスが酒の肴になった。
ウィスキーの銘柄は様々だ。フォアローゼス以外にもマッカランだとかハーパーだとか。バーボンもスコッチもお構いなしらしい。
何か重大なことを忘れている気がしたが、頭が回り切っていなかった。
「なんで結婚しなかった?」
トマゾは酒に強いようだった。
「顔を隠すのが嫌だったんだ」
「隠しちまえよ、ちょうどいいじゃないか」
「ひどくね?」
話題は二転三転した。大体は二人が話していた。ノエミのインド話や、それより前のバックパッカー時代の話、トマゾの趣味の話。彼は自殺者の統計を取るのが好きらしい。病気だと思った。
けれど、夏近くなった季節、夜、酒の場といったところで話題に出るのは、浮いた話だ。徐々にそっちへと傾いていく。
「イケメンだったか、マヒーンドラ」
「ひげが格好よかったぜー」
「おれはどう思う?」
トマゾの笑い方は好きじゃなかった。品がない感じがする。ノエミも十分品のない女だったが、彼女の笑い方は気に入っている。質が違うのだ。俺はまた少し、気分が悪かった。この男はノエミを落とそうとしている。
ノエミは一人身だし、トマゾも一人身らしい。俺はノエミの男でも何でもないのだから、この感情は理不尽だ。多分、そうだ、保護者みたいな気分でいるんだろう。得体の知れない男はやめておけ、という。
「やめとけよ、そいつは。まともなセックスしないぞ」
だからつい言っていた。
俺も回っているんだろう。
「なぜわかった?」
トマゾが目を丸くした。冗談だか本気だか分からない。
「縛ったり鞭使ったりするのか?」
ノエミの目が輝く。
「興味あるのか? もっとすごいぞ」
「もっとすごいってどんな」
「やめておけって言っただろ!」
彼女のことだ。アブノーマルな性癖も受け入れてしまいそうだが、そのまま犯罪にも巻き込まれそうだ。トマゾには悪いが、断固阻止させてもらうしかない。こいつは犯罪者、あるいは予備軍の顔をしている。
「お前はもっとしっかりした方がいい。危機感とか……。マヒーンドラだって嘘だ」
「マヒーンドラはホントにいたぜ?」
「違う、そうじゃなくて、石油なんて嘘でお前をどっかに売り払うつもりだったんだ」
「人身売買だ、怖いな」
ノエミはげらげら笑った。
「笑いごとじゃない」
「大丈夫、大丈夫」
「あのな……」
「君は私を心配してくれてるんだな? ありがとう、うれしい」
はっとした。
ノエミが、ペットか何かにするような仕草で、俺の頭を掻き混ぜたのだ。一気に羞恥心で顔が赤くなる。
「まるで子供だ……」
今までだんまりを決め込んでいたミシェルが、ボソリと呟いた。飲めないと豪語していた彼も、結局何杯か口にしている。
「何とか言ってやってくれ、危なっかしくて見てられない」
「彼女がじゃない」
「え?」
「貴方が」
俺は言葉を失った。
何を言っているんだ? どう見たって俺はノエミよりしっかりしてるじゃないか。ミシェルの目を見る。死んではないが据わっていた。かなりキている。
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「人身売買が起きたとして、売り払われるのは貴方ですよ」
「ノエミちゃん嗅覚良さそうだしなあ」
理解出来ない。どうしてそんな話になる?
「足枷を気にしない方が、危険な場所に踏み込まないものです」
「どういう……」
「且つ、自由を操れるのなら」
「お前の言っていることはよく分からない」
「私は分かる」
彼は、ふいと視線を逸らした。ワインを口にする度に眉間に皺を寄せる。
妙に重みのある言葉だった。でも、話が抽象的すぎてやっぱり理解できない。俺は唸りそうになる。突っ込んで聞こうと思った。
「なーんか深いぃー」
しかし、先にノエミが馬鹿な声を上げた。俺は前のめりにバランスを崩しかけた。
「お兄さん哲学者みたいー。一人身ー?」
娼婦みたいにシナを作っているが、似合わないと理解しながらやっている節だ。
「……まあ、ええ」
「ノエミちゃんやめとけって、こいつは童貞でロリコンだよう」
「えっマジ? 超アブノーマル」
「デマを吹聴しないでください」
「デマなもんか、皮がべろべろの童貞じゃないの」
「だっ、誰の皮が……! 見たこともない癖に……!」
「べろべろじゃないなら証明してみろよう、見てやるから脱げ」
「イケメンのストリップ最高! 脱ーげ、脱ーげ!」
「恥を知りなさい、恥を! あっ、ちょ、なに触っ……、ベルト……ッ!」
歓声、笑い声、怒声。
場の空気が、一気に戻っていく。
俺はやっと気づいた。ノエミの話は、すべて酒の場を盛り上げ、笑えるものだった。そんな話題を選択しているのだ。そしてそれは、場を取り繕うものじゃなく、自然に、面白くしたくてそうなるんだろう。
ミシェルの言ったことも、少しだけ分かる気になってしまった。ノエミは確かに俺よりずっと嗅覚が良くて、危険なものと、そうでないものを判別出来るんじゃないか? でなければ、多くの国をバックパックひとつで跨いだりしないだろう。それも、女の身で。
「一人身じゃないのはこいつだけか」
ひとしきり騒ぎが終わったところで、ノエミが俺の肩を突き飛ばして、悪意なく笑った。
「彼女持ちで女と出かけたのか、やりよるのう」
ひひひ、と陰湿な笑い声がした。トマゾだ。
「別に、そういうつもりじゃ……。ノエミは女に思えないし」
「ひどくね?」
「……女に思われたいのか」
「いいや?」
ノエミの反応に、俺はため息をついた。トマゾが、「どんな女なんだ?」と言う。
「どんな……、普通だよ」
「美人か?」
「可愛い方だと思う」
「幸せか?」
その一瞬――俺は言葉に詰まっていた。即答すればいいものを、イエスと言えなかったのだ。
「しがらみだねえ、世の中そればかりだ」
トマゾの言葉に、反論が出来なかった。俺と彼女は、誰がどう見ても順風満帆なはずだ。だって、俺はそうしなければならない。彼女が嫌がるような男であってはならないのだ。
本当は張りつめてなければならなかった。ポーリーンが居ないところでも、俺が彼女の恋人であることに変わりないのだから。
だから……。
「俺は一生、恋は出来ない」
そう呟いてしまった俺は、そうとう酔っていたし、弱っていた。ノエミが俺を見る。別れりゃいいじゃないか、と簡単に言うんだと思った。でも違った。
「仲間になってやるよ。いつだってウィスキーを揃えておくからさ。気が向いたらストラスブールに帰ってきな」
彼女がどういった心情で、俺に言ったのか分からない。ただ、仲間、という言葉が心強かった。恋人でもなく、友人でもなく、仲間。恋人の知らないところで出来上がる、俺だけの交流関係。
「ノエミの方がいないんじゃないか? ぱっと思い立って、今度はモンゴルに行ってそう」
「連絡しろ、夢にチンギスハーンが出ても家にいてやるから」
ノエミはまた、俺の頭をぐしゃぐしゃにした。
不覚にも、泣き出しそうになった。
だから一気にコップを傾ける。
水のようにウィスキーが喉に注ぎ込まれ、直で胃に落ちた。
「飲もうよ」
空のコップに、アルコールが満たされる。
俺の心も、満たされ始めていた。
◇◇◇
アンチェインド・メロディが流れている。
単純な電子音が嫌だからと、ポーリーンが携帯を新しくしたのだ。ゴースト・ニューヨークの幻は、彼女がお気に入りの映画だ。俺はあまり好きじゃなかったが、涙を流して感動するポーリーンに対し、「いい映画だったな」と言った。
……誰の携帯だろう。ノエミか? 彼女もポーリーンと同じ映画が好きなんだろうか。
ゴーストたちがふらついている。
亡霊も酔っぱらうのか?
「はい、もしもし?」
メロディが消えた。やっぱりノエミのか。
それにしても、頭が痛い。
どうしてこんな頭痛がするんだ?
電話、終わってくれないだろうか。
耳鳴りがする。
「私? ノエミだけど。ん? いま? 私の家だ。え、場所? えーと住所言うからメモれるか? ストラスブールじゃない。メッツの方面」
…………?
誰か来るのか?
「お、今から? あはは分かった。待って、名前聞いてない。うん。……ポーリーン? オッケー、じゃ、あとで」
俺は勢いよく起き上がった。
「ポッ、ポッ、ポッ……!」
「ハトか?」
「ポーリーン!?」
俺は馬鹿か!
ノエミの手から携帯電話をひったくる。
これは俺の携帯だ。ポーリーンが機種変更した時に、俺も新しくしたじゃないか。それで着信音も同じに……ああくそ!
「切れてる……!」
「タクシーで来るって言ってたぜ?」
「…………!」
シンバルが頭の中で叩き鳴らされる。ぐわんぐわんになって、目の前がおかしくなりそうだった。
俺の形相は必死だったに違いない。あたりを見渡すと、空のボトルがこれでもかと転がり、酒の香りが居残りしている。それで、開け放たれた窓から朝の風が入り込んでいた。カーテンが時折丸まって、空気を抱え、大きく広がる。
ゴースト――じゃない、自称工場員二人は、まさに出ていくところだった。俺は四つん這いになって追った。縋った。
「まだ居てくれ、頼む……!」
この際、体裁とかどうでもよかった。
「なんだよ、おれに恋でもしたか。イケメン相手でも野郎はなあ……」
「帰りますよ」
「待って!」
二人の服の裾を掴む。さすがのトマゾも、俺を気味悪がっていた。ミシェルは身体ごとヒいていた。
「今から俺の恋人が来るんだ!」
「だからなんだ、見せびらかしたいのかあ?」
「違う、女と二人きりの現場より、他に男が居た方が断然いい!」
一瞬、沈黙が降りた。
後ろの方でノエミが噴き出す。
「ちっさー」
何とでも言ってくれ。
ポーリーンと俺の関係は――二人だけの問題じゃない。家族の死活問題だ。彼女が俺を見捨てたら、親父まで生きていけなくなる。
「これ以上は勘弁願います、帰りますよ」
「いいんじゃない? 代休取っちゃったし」
「いい加減に……」
「ほかの奴があの子のいろんなところ見ちゃうの、嫌なんだろう? 少しはお熱を冷ました方がいいんだぜ」
「違います、私は単に……」
「運転出来るのはおれだぞ」
「Merde(くそったれ)!」
押し殺したミシェルの罵声が聞こえる。フランス語だった。だが、とにもかくにもまとまったようだ。俺は心底ほっとした。その様子を見られていたらしい。
「いやはや小さいなあ……」
「浮気の誤解くらい何ですか。もっと大きな誤解をされてみなさい」
俺はもう、何も返せなかった。
「まあ、そういうことなら延長戦といこうぜ」
ノエミがウィスキーボトルを取り出す。まだあるのか。愕然とした。
「勘弁……」
ミシェルが青ざめる。
「酔ったら向かい酒だ」
トマゾは乗り気だ。ミシェルを引っ張ってソファに戻る。二人とも足取りが危うかった。
俺も呼吸を整えて、ソファに戻る。
五つ目のコップが用意されて――
現れるはずの恋人に、何をどう説明したらいいのか、痛むばかりの頭で考えていた。
◇◇◇
チャイムが鳴らされる。
俺は嵐が来るもんだと思っていた。
◇◇◇
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「……それで、私に連絡する暇もなかったんだ?」
「暇っていうか……そうじゃない、すっかり酔ってて……」
「ふうん」
再び酒の匂いが満ち始めたリビングは、空気が張りつめていた。一歩間違えれば嵐になりそうだ。
俺は一通りポーリーンに説明した。
彼女の機嫌はまだ元通りではないが、他に男二人がいたのは良かった。話に信憑性が持てる。
ノエミが「取っておきなんだ」と黒いラベルのフォアローゼスを出してくれたのも、ある意味で良かった。ただし俺も昼間っから飲む羽目になってしまったが。
明日は休むしかない。
「あのね、ネイン」
彼女が改まって俺を見る。
無意識に居住まいを正した。
「勘違いされたら嫌だから言うね? 私はね、別にネインが女の子の友達と出かけたって怒ったりしないよ? 逆に隠された方が嫌だよ」
「え……」
まじまじと彼女を見る。どこか困ったように眉を下げる様子は、小動物っぽい感じがした。
俺は正直、面食らっていた。
「うん、うん、彼女さんの言うとーり」
ノエミがゆったりとフォアローゼスを傾けている。彼女の胃袋はどうなっているんだ。
「なんか、嫉妬深い彼女みたいに思われたら、それも嫌」
「…………」
何も言えない。
「そんな風に思ってた?」
「いや……」
彼女が、そんなに心の狭い人だとは思ってない。――と、言い切れない自分がいた。俺の疑心暗鬼なんだろう。勝手に追い詰められて、プレッシャーを感じている。扉が開いた瞬間、俺の人生は終わったのかもしれない、などと思ってしまったのだから。
「すまない」
それでも、謝った。心の底から、だと思う。
嵐は来なかったのだ。
「私はネインのこと、信じてるもの。次からはちゃんと言ってね?」
「ごめん……」
「謝らないで」
ポーリーンは穏やかに微笑んだ。久しぶりに彼女の笑顔を見て、ほっとした。
本当に、大丈夫なのだろうか。
俺の思い込みばかりで、彼女との関係も、本当はもっと身軽なものなのだろうか。
きっと――そうだ。
ポーリーンが微笑んでる。
俺を許すように。
不意に、色々なことが申し訳なくなった。
恋が出来ないと漏らしてしまったこと。
ノエミの世界に入りたいと思った気持ち。
俺はポーリーンに向き合えるだろうか。
「ネインは、私のこと……好きだものね?」
確認するようなその言葉。
俺はゆっくり頷いた。
「俺の恋人はお前だけだよ」
「うん」
彼女は満足そうだった。
これでいい。これで、間違いはない。
初夏の風が入り込む。
安堵が部屋の中に広がった。
「……トイレから戻ってこないな」
ノエミが思い出したように言う。
俺たちは顔を見合わせて、それから、トイレの様子を見に行った。
「うわあ」
誰かが憐憫に満ちた声を上げた。
ミシェルが便器に突っ伏して、くたばっていた。
初めてこの人に、心から申し訳ないと思った。
◇◇◇
トマゾは死人と化したミシェルを背負って、勤め先に戻った。髑髏みたいな外見に反して、明るく手を振ってくれた。もう一度会えればいい、と思ったが、そんな時は来ない気がした。よくある一期一会で終わるのだろう。俺たちは連絡先も交換しなかった。
ノエミはストラスブールまで送ってくれると言ったが、彼女のスクーターでは無理な話だ。だから駅までタクシーで行って、鈍行で戻ることにした。
車内でもポーリーンは俺に優しかった。「ノエミさんいい人だったね」そう笑っていた。
エラスムスを終えて、オランダに戻った時に、俺はノエミを思い出すだろうか。彼女に会いにフランスに戻るだろうか。
分からない。そうしない方がいいと思う。
目の前にいる彼女を大切にしないといけない。
きっと、出来るだろう。
きっと……出来るはずだ。
誤解していたことも、きちんと改めていこう。
大丈夫……。
俺は、大丈夫だ。
◇◇◇
「調べて欲しいのはこの女性のこと。今すぐ結果を出さないでいいの。ううん、出ないと思うから。半永久的にね、見張ってて欲しいの。
お金なら出せるわ? そんなこと、問題じゃないもの。
私ね、彼のこと信じてる……だから彼が潔癖だって証明しなきゃ。ね、そうでしょ?
ふふ……こんなの初めてだな。
探偵さんのお部屋って、なんだかどきどきしちゃう」
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