U.Pain ――ED4 躊躇、その後――

「わたしが今も、あなたを――愛していると。どうしてそう言えますか?」
「わたしが求めているのは、あなたではなく、もう白い髪の娘なのだと……あなたはそれを否定できますか?」
「あなたに対する感情が、愛ではなく憎しみになったのだと――」
「それを否定できますか?」

「……さようなら、ミシェル」

 ◇◇◇

 それはミシェルがジゼルを手放してしまった、救いのない世界の続き。
 あの一瞬の躊躇が導き出したのは、二人にとって 最悪の結末 バッドエンド だった。
 だが――それは、ある少女にとっても同様であったのだ。

 そのことに、少女はまだ気づいていなかった。

 ◇◇◇

「本当に良かったのですか? ……彼を館から解放してしまって」
 暖炉の前のロッキングチェアーに深く腰を下ろしながら、魔女と化した少女は骨の指先で己の唇を撫でた。醜い爛れに覆われた顔は確かに呪われた魔女らしかったが、彼女を魔女たらしめているのは皮膚の爛れではなかった。それ以上に、彼女の微笑みが悪魔的だったのだ。
 女中――いや、己がジゼルであることを思い出した哀れな女は、薪を暖炉にくべながら魔女の声を聞いていた。何百年もの間繰り返し続けた仕草だったが、この瞬間ばかりは、いつも通りとはいかなかった。
「……ええ」
 ジゼルは思いつめた顔を上げた。不死者らしく、彼女の顔からは完全に血の気が失われていたが、それでもいつも以上に青白く感じられる。
 彼女は数刻前に、心から愛する人を突き放したばかりだった。
 ミシェルの魂は無の世界へと送られ、もう二度とこの館に戻ることはないだろう。それはジゼルが「彼がもう二度とこの屋敷に迷い込まないように」と願った為でもあった。
「そうですか。つくづく、理解できないものです。憎んでいる相手なら、縛り付けて、永遠に苦しめれば良いのに。彼の魂をとらえるには、良い機会だったわ」
 魔女は唇を何度か撫でながら、悠々と告げた。
「わたし……、彼を憎んでなどいませんから」
 しかしジゼルの言葉を聞き、彼女の骨の指先はぴたりと止まった。怪訝に眉を跳ねさせたが、それはフードの影に隠れており、外に漏れることはない。
「あら、そうですか。あんなことを言うものだから、てっきり、憎しみを抱いているのだとばかり」
「わたしが、あの人を嫌うわけないじゃないですか……。殺めるのも、苦しめるのも、するはずがないわ」
 ジゼルの表情はひどく沈んだままではあったが、どことなく柔らかさも潜んでいた。益々分からない、と少女は思う。
「ふふん……? ではなぜ、あのような発言をしたのです?」
 骨の指先が、すっと、ジゼルへと向けられた。
 ジゼルが漏らしたのはため息だった。
「それは、きっと、あなたには分からないと思います」
 愛ゆえに遠ざけることもあるのだと。愛ゆえに、もう不死者と化した女と関わらず、人の世に戻って欲しいと願うこともあるのだと。愛ゆえに二度とこの呪われた館に戻らせたくないのだと。
 それらの切実な思いの数々は、あなたには分からないでしょう。
 愛ゆえに、「あなたのことを愛していない」と告げることも。
 愛ゆえに、嘘をつき突き放すことも。
 あなたには、分からないのでしょう。
「まあ……そうですね。特に、分かりたいとも思いません。経緯がどうあれ、現状はなにも変わっていませんしね……? あなたは私の忠実な女中のまま。いずれまた、自分の名前も分からなくなるでしょう」
 魔女の声に、ジゼルは瞼を下ろした。
 確かにその言葉通り、時間が経てば、それが再び己を蝕み何もかもを分からなくさせていくのだろう。だが、かつては覚えたはずの消失の恐怖を、今は感じなかった。
 最早、彼女に待ち人は存在しない。
 待ち続けた人が現れないという絶望そのものが消えたのだ。
 何より彼女はこの選択を悔いてはいなかった。己が辿った道筋をミシェルに語り聞かせ、過去を見せた時から、自分がもうかつてのジゼルとは大きく異なる不気味な存在になったのだと理解してしまったから――、
 ミシェルに、そんな自分と共に歩ませたくなかった。
 だから……これで良かったのだ。
 ジゼルは心に何度も告げながら、ゆっくりと俯いた。
 黙り込む彼女を見ながら、魔女が再び悪魔の微笑を浮かべる。
「ふふ……、ここは本当に素敵な世界ね……」
 だってここでは、すべてが私のてのひらの上なのだから。

 ◇◇◇

 それからどれくらいが経過しただろう。
 現世から切り離された呪われた館は、いわば時の狭間を彷徨う牢獄だ。時の流れそのものも、現実と比較することが出来ない。あるいはそれ自体も、館に棲まう各人によって異なるのだろう。
 少女――モルガーナは長い眠りから覚め、ゆっくりと瞼を上げた。目の前には、やはりぱちぱちと火花を散らす炎があった。そして青白い肌をした女が、どこから得てきたのか定かでない薪を手にし、暖炉にくべる。亡霊の日常を繰り返す女中が、少女の視界に入り込む。
「あら……起きていらっしゃったんですのね。おはようございます」
 少女はすんと鼻を鳴らし、どこか高圧的な態度で微笑んだ。
「ええ、おはよう。あれからどれくらい経ったのかしら」
「あれから?」
「彼が消えてしまってからよ」
「……彼?」
 女中は幼い子供のように小首を傾げて、まったく角度の変わらない整った微笑を浮かべた。モルガーナはそれを見ただけで、女中がどのような状態であるのか察した。
「少なくとも、再びあなたがそうなってしまうくらいには時間が経ったのね」
「何を仰っているのでしょう? ああ、いつもの言葉遊びですか?」
「私がいつ言葉遊びをしたというのです。言葉で煙に巻くのは女中のあなたの方でしょうに」
「まあ。ではそういうことに致しましょう」
「……解せない言い回しをするわね」
「うふふ、お気を害さないでくださいまし。それで、どうしましょう。お目覚めのハーブティでもご用意いたしましょうか」
 モルガーナは呆れたように口元を歪めた。やはりすっかり元通りになっている。ジゼルの気が狂ってからというもの、目を覚ませば毎回同じやり取りをさせられるのだ。女中と同様に時間の経過に鈍くなってしまった少女とはいえ、やはり何度も同じ質問をされるのは面倒な気持ちにもなる。
 まあ、そのように狂わせたのは他ならぬ自分なので、不満に思うのも筋違いなのだけれど。
「何度も言ったように、そんなものは不必要です」
「では、お食事も?」
「食事も。これも何度も言いました」
 女中は「つまらないですわ」と拗ねたような顔をしてみせた。少女は内心、「大体お茶も食事も所詮は亡霊の妄想の産物なのだから、間違っても口に入れたくないわね」とため息をつきながら思っていた。
「ではいつものように、お屋敷を回られますか?」
 女中が言う。少女は「そうね……」と天井を仰いで呟いた。魔女がやることといえば、彼女が捕らえた三人の男の魂を傷つけ続けることだ。言葉を用い、過去の映像を見せつけ、あるいは直接的な痛みを与えながら。じわじわと彼らの魂を破壊し、拷問に近いことを繰り返している。
 この館の主は他の誰でもなく、魔女自身だ。現世に現れぬ状態であれば尚のこと、彼女の想いが強い影響を及ぼす。つまり今ならば大体のことが思い通りというわけだ。
 そうやって亜麻色の髪の少年と、獣のような男と、非道な領主を追い詰め続けてきた。
 彼女は思案した。このまま永劫の時を、同じように復讐に費やすのでもいい。しかし彼女も飽き始めていた。ミシェルの訪れは一時の暇つぶしになったが、彼が戻ってこない以上、もう何の変化も起きないだろう。
 自分が事を起こさない限りは。
「彼らを、もう一度放つ時が来たのかもしれませんね」
 女中は意味を理解しかねているようで、魔女の言葉にきょとんとしていた。気の狂ってしまった女中には分からないのだ。三人の男の魂がこの館に囚われていることも、彼らの魂がそれぞれ縁のある部屋に閉じ込められていることも。
 しかし不思議そうにしながらも、「このお屋敷にある何かを……解放してさしあげるのですか?」と女中は聞いた。
「まさか」
 魔女は嗤った。
「彼らには強い呪いがかけられているのですよ。そう、すなわち、再生と破滅の願いです。彼らには三度目の人生と、そして三度目の破滅を迎えてもらいましょう。フフ……、次はどのようなむごたらしい結末に至るのかしらね。ねえ……楽しみでしょう?」
 女中はいつも通りの微笑みを浮かべて、何も分かっていない様子で「ええ、楽しみですわね」と答えた。
 魔女は楽しげに立ち上がった。悪意に満たされた心が弾んでいる。憎らしい男たちの惨めな末路を想像すると、彼女は愉快で仕方がなかった。
 彼らには永劫に苦しんでもらわなければ。死よりも重いものを背負ってもらわなければ。その魂に深い業を刻ませてやらなければ。
 何度も何度も繰り返してもらわねば。

 ◇◇◇

 モルガーナはまず、亜麻色の髪の少年の下へ向かった。彼の魂は薔薇園に閉じ込めていた。彼女が触れずとも、庭園の扉はその意志のままに開く。錆びついた金属の耳障りな音が、廊下いっぱいに響いた。
 彼女の前に、色彩を失った枯れた薔薇園が広がった。もう見慣れた光景だったが、かつて薔薇園が鮮やかに美しく存在したことを知っているからこそ、空虚な色合いは虚しさを助長させた。だがこの景色に侘しさや罪の意識を覚えるのは、勿論、魔女である彼女ではない。
 茨に飲み込まれるようにして、少年の影が一つ蹲っていた。その影はとても不安定で、彼自身の姿を保つことすら危うく、ゆらゆらと揺れている。
 影は頭を抱えながらぶつぶつと呟いていた。
「僕……だけが……悪い……んじゃない……。こんな……世界……、もう、耐え、られない……。誰か……僕を……ここから……助け出して……」
「…………」
 モルガーナはすっと顎を上げて、その哀れな影を見下した。前に影と対峙した時は、まだもう少しまともに話せていたような気がするが、今では思考すらも覚束ないようだった。
 亜麻色の髪の少年には、何度も何度も、すべての始まりとなったあの過去を見せている。祝祭の日に多くの人間が死に、妹が息絶え、偽りの日常が崩れ落ちていく。そしてそれだけではなく、今の彼は二度目の生の過ちも見せつけられていた。
 湖畔の魔女を裏切ってまで、妹を拠り所にし大切にしていたというのに。
 その妹を、今度は「気持ち悪い」と吐き捨てた。
「あんな……ことに……なるなんて……思わなかったんだ……」
「…………」
「僕はただ……普通に……暮らしたかった……」
「…………」
「誰か……ここから……助け出して……」
「解放してあげましょうか?」
 魔女の声がかかり、彼は初めて、彼女がそこにいるのだと気づいたようだった。虚ろな気配を漂わせながら顔を上げて、じっと、モルガーナを見つめる。
「……え……?」
 魔女は口角を吊り上げた。
「あなたのことを、もう、解放してあげると言ったのですよ」
「…………」
 亜麻色の髪の少年は、物を考える力を失っていた。それを失っていなければ、魔女が突然見せる優しさなどまやかしに過ぎないと分かるはずだった。所詮は甘言に過ぎないのだと察せられるはずだった。
 しかし彼はもう、魔女の気まぐれに縋るしかなかった。
「か……解放……してください……」
 どうして彼女が突然そんなことを思い立ったのか――その質問すら思い浮かばない。解放という一言に、彼は飛びついてしまった。なぜもどうしても一切が必要なかった。ただこの場所から逃げ出したかった。
 魔女は一層、邪悪な笑みを深めた。
「そう、では、あなたの魂をあるべきところへ還しましょう。人の世に戻れることを幸福に思うことね」
「あ、ありがとう、僕を、許してくれて……」
 亜麻色の髪の少年は、最後に歪な笑みを浮かべて消え去った。影が消えると、一陣の空虚な風が魔女のローブを揺らした。
 彼女は笑いをこらえるので必死だった。許してくれてありがとう? なんて傑作な! 一言も許すなんて言っていないというのに!
「さようなら」
 彼女は骨の指先で唇を撫でて、歳相応の仕草で首を傾げた。
「――また会いましょうね?」

 別れの言葉は、「もう巡り合うこともないでしょう」ではなかった。

 彼の魂はいずれ現世に降りるだろう――深い呪いを消せないまま。
 そしてその呪いがある限り、縁の者であるあの少女の魂もやはり――
 呪われたままなのだ。

 ◇◇◇

 次に彼女は、東洋人の下へ向かった。彼の魂は、血腥い臭いが漂う地下倉庫に閉じ込めている。あの殺人鬼は自我を失って久しく、母国語なのかあるいはそもそも人の言葉でないのか定かでない咆哮を上げて、破壊を繰り返していた。
 実を言うと彼女は、この扉を潜るのは、あまり気が進まなかった。呪われた屋敷という、言ってしまえばちっぽけな死者の世界で、彼女は確かに主人であった。しかし同時に、彼女もただの魂であるという側面がある。不意をつかれて魂を傷つけられてしまえば、いかに彼女とて無事では済まない可能性がある。
 彼女が一番に憎んでいるのは非道な領主だが、一番に警戒しているのは東洋人だった。
 彼女はやれやれという思いを抱えながら、扉を開いた。
 その瞬間案の定と言うべきか、人の姿すら保てていない獣が飛び掛かってきた。
「止まりなさい!」
 彼女は骨の指先を突きつけて、強い願いの元に一喝をした。意志や想いの強さは、死者の世界では何より物を言う。生前の彼女は無力な少女に過ぎなかったが、この場においては誰よりも強い存在だった。
 魔女の一声に、日本刀を振り上げた獣は寸前でぴたりと止まった。いや、身動きを奪われたと言った方が正しかったかもしれない。目を見開き、小柄な魔女の姿を凝視しながら、首筋にうっすらと汗をかいた。
「           」
 獣は何かを叫んだが、それが人の言葉になることはなかった。
 地下倉庫を一瞥すると、そこは死体で満ちていた。まさに凄惨な地獄絵図。もしかしたらその中に、彼の鎖であった女も飲み込まれているのかもしれない。
 彼女は金色の瞳を獣に向けた。生前、彼女はこの男のことを心から恐れた。東洋人の訪れを恐怖したあまり、亜麻色の髪の少年を頼ろうと、あの瞬間扉を開いてしまったくらいなのだから。
 しかし今、その恐れはなかった。むしろ自分がこの男の魂をいかようにでも出来るのだと思うと、昂揚感に満たされる。
「あなたを人の世に戻してさしあげましょうか?」
 魔女は再び邪悪な笑みを浮かべて告げた。
 獣は言葉を失い、唖然とした様子で魔女を見た。そして僅かにではあったが、その影の姿は人のようなものへと変じていった。
「あなたの二つの願望は、いまだにあなたを苦しめているのでしょう? 嬉々として他者を殺める反面、穏やかな人の世に憧れている。一度は獣として堕ちた癖に、まったく、難儀なものですね。……あなたの心の渇きは、本当は、平穏こそが原因なのではないのですか?」
「…………」
「だから……やり直す機会をあげると言っているのですよ」
「ソレハ、ホントウカ」
 影の指先が小刻みに震えていた。かつてあれほど恐れていた不気味な殺人鬼が、こうも脆さを曝け出している。彼女は笑いだしたくてならなかった。
 それを抑えながら、微笑みを浮かべ続ける。
「ええ、本当ですよ」
 影の手から刀が落ちて、甲高い金属音を鳴らした。それはまるで、誰かの悲鳴のような音色だった。
「あなたも結局は、人の世に戻りたかったのね」
 影は項垂れるようにして、かろうじて、頷いてみせた。
 その構図は、さながら救済の聖女と醜い化け物だった。
 白い髪の娘と獣、まさに在りし日に存在した光景そのもののように。

 ――本質はまったくの逆だったのだが。

 そして獣は、魔女の慈愛を受け取り人の世へと消えた。同時に数多の死体の山も、最初から存在しなかったかのように消え失せた。あとに残るのは血の香りだけだ。
 魔女はついに堪えきれなくなり、大笑いをした。
「傑作ね! 今のあなたが人の世に降りたところで、平穏など得られるはずもないのに! あなたは再び自分を止めてくれる人を殺め、狂気に至るのよ! 次はもっと殺人鬼らしく、すべての者に疎まれる無残な結末を迎えるがいい!」
 彼女の笑い声は、しばらく止まなかった。

 ◇◇◇

 最後に向かうのは、彼女が誰よりも憎む領主のところだ。
 領主。
 あの男のことを考えるだけで、心が真っ黒に染め上げられていく。私の人生を壊し、魂を穢した元凶。誰よりも邪悪で、非道な男。血のサバトを開き、聖女を見世物にした男。
 彼女は三人の男をそれぞれ憎んでいたが、諸悪の根源たる領主は別格とも言えた。
 彼女は二階の遊戯室に向かった。シガレットの香りが廊下に漏れだしていて、それは虚しさすら感じられるものだった。
 扉を開くと霧のように煙が散らばっていき、ビリヤード台に俯いて腰掛ける男の影があった。影は魔女の訪れに気が付くと、数拍の間を置いてから、ふらりと動き出した。彼の足取りも不安定で、やはり人の形を取り戻しきれていなかった。
 男の手が、少女に向けて伸ばされる。それは悲痛な指先だったが、当の少女にはそう見えていなかった。過去と同様に、自分に害を与えるための、憎しみの指先であるとしか思えなかった。
「触らないで」
 彼女の強い拒絶が、男の動きを奪った。
 二人の溝はあまりにも巨大で、そしてあまりにも深い。それを埋める術はどこにもなかった。
 少女は他の二人にしたのと同様に、魔女めいた微笑を浮かべてこう告げた。
「領主、あなたの魂を解放してあげるわ。喜ぶと良いでしょう」
 影は立ち尽くしたまま、少女を見つめていた。
 解放してあげる――そう告げたはずなのに、影は欠片も喜ばず、むしろ絶望感すら漂わせた。彼が何かを叫ぼうと口を開く。しかしそれらは掠れた音にしかならず、彼女まで届かない。
 彼女は首を傾げた。他の二人同様、領主も喜んで人の世に戻ると思っていたから、その反応は予想外だった。
「ああ――」しかし彼女は納得したとばかりに頷く。「私の思惑が、あなたには分かっていたのですね。解放とはただの誘惑で、三度目の破滅をあなたに突きつけたのだと。なるほど領民の王らしく、多少は頭が回るものです」
 男は必死に何かを伝えようとした。しかし言葉を紡ごうとすればするほど、彼の声は枯れていく。ならばせめてと、彼女に近づこうとあがく。だがそれすらも、彼女の冷たい一言によって無残にも砕かれるのだ。
「もうあなたには、二度と触れさせないわ」
 彼女が骨の指先を男の足元に向けた瞬間、彼の足に重苦しい鎖が巻き付いた。罪という重量を増した鎖は、男の足にぎりぎりと食い込み圧迫していく。
 それは、かつて物見の塔を閉ざした鎖とよく似ていた。
 影は抵抗する術もなくその場に膝をついた。鎖の擦れあう悲しい音だけが、場違いな遊戯室に響く。
「ふふ、無様なものですね。かつて広大な土地を治めた領主が、そして巨大な組織の頭首が、何も出来ず項垂れているなんて。たかが一人の娘に見下される気持ちはどうですか? 悔しくてならないでしょう? ねえ……?」
「……  …   ……    ……  !」
 影の叫びは、やはりほとんどが声にならない。しかし、何かを伝えたいという必死の想いが、かすかな音の並びを作り上げ始めていた。
 魔女は高慢な態度を崩さないまま、膝をつく領主を見下して笑った。彼の告げたい言葉など、所詮は暴言の類であろうと思っていた。領主はプライドの高い男だ、どうせ今も「こんなことをしてタダで済むと思うな」などといった台詞を吐いているに違いない――。
 ならばそれをへし折るのも一興というものだ。
「あなたの恨みごとを聞いてあげても良いですよ。さあ、ゆっくりと、言ってごらんなさい」
 彼女は自ら男の影に近づいて、その顔を覗き込んであげた。魂の影と化した男からは、表情をしっかりと読み取ることも出来ない。分かるのは必死に何かを訴えようとしているその感情だけ。
 影は喘ぐようにしてその言葉を、ようやく伝えることが出来た。

「償い を  させて   ほし  い」

 彼女は固まった。
 何を言われたのか、一瞬、分からなかった。
 今、領主は、償いをしたいと告げたのか?
 あのサバトを開いた領主が? 奴隷を甚振り、己の欲望のままに殺し尽くした残酷な男が? この私に贖罪?
 ……なぜ?
「私  が   君を 魔女に  させ た のだ」
「…………」
「どの よ う  なことでも   す  る」
「…………」
「償   い   を」
「うるさい」
 彼女は吐き捨てるように言った。一歩後ずさり、領主から距離を取る。フードで隠された表情は混乱で歪んでいた。
 そうかこれは、結局のところ、呪いをなくしてもらおうという魂胆なのだろう。償いなどと言い、私の情に縋ろうとしているのだ。……愚かなものだ。魔女に情などありはしないのに。私の内側を支配するのは途方もない憎しみしかないというのに。
 彼女は冷静さを取り戻すと、口先だけで惑わそうとしたその行為を後悔させてやろうと思った。彼女は闇の天井を仰ぎ、また一つ願いをかけた。彼女の想像上には、かつて領主が振り下ろそうとしたあの長剣がある。やがて魔女の願いは形となり、剣は虚空から産まれた。
 領主の傍らに、古ぼけた剣が落ちる。
 彼女は指先を剣に向けて、口角をこれでもかと吊り上げた。
「私に償いがしたいと言うのならば、まずは私と同じ苦しみを味わってもらわなければ。その剣を取り、そして己の左腕を斬り落とすといいわ。……もっとも、他人を傷つけることしか知らないあなたには、そんなことは出来も――」
 ――しないでしょうけれど。
 その言葉が吐き出されることはなかった。
「え」
 彼女の唇から生まれたのは狼狽の声のみだ。
 目の前でごとりと影の一部が落ち、そこから真っ黒な液体――魂の血液――が大量に流れ落ちていく。遊戯室の絨毯に、またたく間に染みが広がっていった。
 影は躊躇うこともなく、己の左腕を自ら斬り落とした。
「次  は 」
 影は血に濡れた長剣を床に突き立て、それを支えにし、かろうじて倒れるのを堪えていた。凄絶な痛みに肩で息をしながらも、彼女の受けた苦しみがこの程度ではないと理解しているからこそ、次を求める。
 彼女は今度こそ、狼狽を隠せなかった。
 一体領主の心に何が起きているというのか?
 私の知る領主はこのような振る舞いをする男だったか?
 いや、それでも、この男が私を幽閉して殺したことには違いない。
 つまりこの男が残虐な領主であることに……変わりはない。
 そのはずだ。それは間違いないはずなのだ。
「次 は  何を  すれば いい」
「…………」
「どうすれば  君の 心が   晴れ  る」
「………ッ」
「モ  ル ガーナ……」
「うるさい!」
 彼女の心はひどく掻き乱された。何かが違うような気がしてならなかったが、それに気づくことを魂が拒絶していた。失ったはずの心の痛みが、甦り始めている。怒りと憎しみにぐちゃぐちゃにされながら、彼女は歪に笑ってこう続けた。

「だったらあなたのお望み通り、私の絶望と痛みを最後まで味わわせてやる!」

 ◇◇◇

 それから彼女は、過去の痛みをすべて領主にぶつけた。生前に受けた苦しみと絶望を彼にぶつけ、その魂を破壊し続けた。彼の身体は傷だらけになり、遊戯室は恐ろしいほどの血で覆われた。それは血のサバトが再び行われたようなものであった。
 彼女が生まれてから死ぬまでの十六年という歳月の間に受けた痛みを、領主はほんの短時間で浴びせられた。そのおかげで彼はもう消滅寸前まで追い込まれていた。大量の血の海に沈む身体は目も当てられない状態で、小刻みに漏れる呼吸の音だけが、かろうじて彼の存在を示している。
 彼女もまた、荒い息をついていた。この男を傷つけるために広げた過去は、今の彼女に新たな傷を作りかけていた。……過去を思い出すことで痛みを覚えるなど、この数百年起きたこともなかったのに。
「……もういいわ。あなたの魂を人の世に戻します。そして三度目の破滅を迎えてもらうわ。あなたには何度も何度も苦しんでもらわなければならないのだから」
 影は血を流し、血を吐きながら、顔だけをどうにか持ち上げた。そして首を横に振る。苦しむのは構わない、しかしそれは人の世であってはならない。この場でなければならない。彼女の目の前でなければならない。そのすべてを伝えたかったが、彼の唇は力を失っており、まともに声を発するのは不可能だった。
 だから一つだけ、言葉を選んだ。

 それは勿論、償いを望む言葉だ。
 そしてそれだけが、彼の願いだった。

 彼女は唇を噛み締めた。訳の分からない感情が、苛立ちが、魔女の理性を奪い去っていく。そんな風に乱される自分自身にも、恐らく彼女は怒りを覚えているのだ。
「馬鹿の一つ覚えのように同じ言葉を繰り返すなんて……くだらないにも程があるわ! そんな感情を持っているのならば、なぜ私をあのような目に遭わせた! なぜ血のサバトを開いた! なぜ見世物にした! なぜ民を傷つけ、狂気の宴を開き続けた! なぜ私を……魔女と呼んだ! なぜ私を……幽閉し……殺した!」
 彼は恐らく否定をしようとした――しかし否定出来ない事実も含まれている以上、彼女の言葉を違うと言い切れなかった。何より、すべてを説明出来るほどの力もなかった。もう思考すら定かでないのだから。
 出来るのはただ、償いという破滅的な願いに縋ることだけだった。
「領主、今のあなたは、本当に理解が出来ないわ……」
 彼女の心境にも、また別の変化が現れていた。ただ、それが良いものであったかと言えば、否定せざるを得ないだろう。もはや絡まりきった糸を解ける唯一の人物がいない以上、事態が好転するなどあり得ないのだ。
 彼女は領主を永劫に苦しめるよりも、この瞬間、自分が楽になりたいと思ってしまった。彼に永劫の苦しみを与える以上、恐らくはこうして何度も償いがしたいと求められるのだろう。
 うんざりだ、と思った。理解出来なくなってしまった領主のことも、そして、彼に掻き乱される自分自身の心も。
「いいわ、分かった。こんな予定ではなかったけれど……あなたに最後の償いをさせてあげる」
 彼女は、骨の手でそっと剣を拾った。

「私に首を差し出すといい」

 彼はやはり、嫌だとは言わなかった。むしろそれこそが、彼の望んでいたことだったのかもしれない。
 彼は残された右腕でどうにか身体を持ち上げると、彼女がやりやすいように、ゆっくりとこうべを垂れた。逃げも隠れもしない、懺悔の姿勢だった。
 モルガーナは、冷たい目でそれを見下ろしていた。
 剣を握りしめる。
 その指先が微かに震えていたことも、気づかない振りをした。

「さようなら、領主。あなたの魂は永劫に消え去ることでしょう」

 そして彼は、彼女の手によって完全に殺された。
 すべての真実もまた、闇に葬られた。

 ◇◇◇

 彼女のローブは返り血で真っ黒に濡れていた。
 なんだかとても、疲れた思いでいっぱいだった。復讐が出来て清々しい気持ちになれるはずなのに、やたらと全身が重たく、閉塞感に満ちている。早く暖炉の前に戻って、長い眠りについてしまいたかった。
 ――そう思って扉を出た瞬間だった。
「用事は、すべてお済みになりましたか」
 目の前に、翡翠の目をした女中がいた。彼女の瞳はあやしい光を纏っている。モルガーナはそれを見て、なぜか、ほんの一瞬ぎくりとした。この場において誰よりも力を持つはずの魔女が、たじろぐ必要などないはずなのに。
 彼女は取り繕うように、すんと鼻を鳴らした。
「済んだわ。……ねえ、暖炉は暖まっている? 今日は疲れたから、もう眠りたいのです」
「ええ、それでしたらモルガーナ、わたしがきちんと薪を入れておきましたから……今ごろは一眠りするにはちょうど良い案配でしょう」
「そう」
 モルガーナは目を伏せて、女中の横を通り過ぎようとした。
 だが。
 何か、強烈な違和感を覚えた。
 今、彼女は自分のことを……わたくしではなく……わたしと言ったのか?
 いや、それよりも、もっとおかしいのは――

 なぜ彼女は、私の名前を呼んだのか。

 その瞬間、背筋に悪寒が走った。
 女中の気が狂ったままならば、決して、他者を呼ぶようにその名を告げはしないはずなのだ。それこそ己のものだと思い込んでいる名前なのだから。
 翡翠の瞳が、冷たい温度のまま、金色の瞳を捕えている。
 女中はゆっくりと微笑んだ。
 魔女は、笑えなかった。

「あなた、まさか、ジゼルなの」

 だが、なぜ。
 ジゼルであるならば、なぜ、気が狂っている演技をしていたのか。
 そこにどのような意図があったのか。
 なぜジゼルのまま、その不気味な微笑みを浮かべているのか。

 私が目の前にしているのは、一体、誰なのか。

 彼女は初めて、女中、いや、ジゼルに対して恐ろしさのようなものを感じていた。誰よりも畏怖されるべき対象は自分であるはずなのに。この館の主は自分であるはずなのに。このちっぽけな死者の世界で、誰よりも自分が一番の強者であるはずなのに。
 そんな自分が、なぜ、ジゼルなんかに気圧されているというのか。
 何か思い違いをしているのかもしれない。
 ジゼルは忠実な女中。自分こそが彼女を従える魔女。
 しかしジゼルが女中として存在していたのは、ミシェルという、彼女の希望であり――そして逆を言えば弱点があったからこそ。
 それを失い、もはや永劫の絶望しかないのだとジゼルが理解した時――

 果たして彼女は、虐げられるままの存在であり続けるのか?

「わたし、あなたが眠っている間に、色々と考えを整理しまして」
「考え……ですって?」
「ええ、ヘイデンの死後、あなたがわたしに語ってくれたでしょう? 三人の男の所業と、その憎しみの想いを」
「そんなことも、あったわね……」
「そしてあなたの強い願い通りに、あなたの憎む三人の男はそれぞれ再生と破滅を迎えました」
「それが何だというの」
「わたし、どうにも解せないことがあるのです。わたしはあなたの過去をあなたの視点で聞いただけですから、すべては憶測に過ぎません。しかし一つの視点から見た物語は、時にその人の思い込みも含まれているのです。ええ、それこそ無自覚に。わたしはそれを嫌というほど思い知らされましたから、よく分かっているのです」
「……あなた、何を言っているの。まさか私の過去を疑っているのですか」
「さあ……、真相は闇に葬られましたから、わたしには分かりません。もはやすべてを明らかにする機会も、失われたと言って良いでしょう。けれどわたしは、あなたと違って、再生した彼らと共に時を過ごしました。特に三番目の扉の彼……あなたが領主として誰よりも憎む人に……違和感を覚えるのです。あの人は本当に、情も涙もない方だったのでしょうか?」
「当たり前でしょう、あの男は笑いながら私の血を貴族どもに振る舞ったのよ。その行いのどこに情があるというのです」
 ジゼルはモルガーナの瞳を臆することなく捉えたまま、より距離を詰める。追い詰められているような心地にさせられるのは、モルガーナの方だった。
「もしもそこに、決定的な間違いが存在するのだとしたら、どうしましょう?」
 間違い? 間違いなど何も存在しない。領主は最初から最後まで非道だった。あの男は一人だけだ。……しかしどうして、それを確信しようとすればするほど胸がざわつくのか。どうして彼を殺めた指先が震えるのか。どうして償いを求めるあの声が、記憶の中の、あってはならない別の人に重なっていくのか。

 彼女の視界に、ほんの一瞬、寂れた墓地が甦った。
 名前も顔も声も忘れてしまった、奴隷の青年が、そこにいる。
 彼女の知る、唯一の“優しさ”の象徴たる青年が。

「……しかし、わたしはあなたを止めなかったのです。……なぜだと思いますか?」
「さ、さっきから……なんなのよ。はっきり言えば良いでしょう。あなたが何を企んでいるのか!」
「企みだなんて。わたしはただ――」

「――あなたにもすべてを失ってもらいたかったんです」

 ジゼルの孤独な微笑みに、魔女はきつく双眸を細めた。彼女が何を言っているのかまるで意味が分からない。私はもうすべてを失ったのだ。失ったからこそ憎しみに堕ち、永劫を彷徨う魔女と化したのではないか。
 ジゼルは冷たい指先を、魔女の頬に伸ばした。
 至近距離で、翡翠と金の瞳が交錯する。
 それは、

 二人の魔女の目だった。

「あなたは憎しみに身を委ね、呪いを振りまく魔女となった」
「…………」
「そしてわたしは、孤独に身を委ね、虚無を振りまく魔女となったのです。孤独を愛さねば、この世界はあまりにも辛いから……」
「違う、魔女は、私だけよ」
「どうしてそう思えるのですか?」
「だって」
 だってすべての始まりは私で、私がこの館を生み出した者で、私が主で、私が一番憎しみを抱いていて、私が一番……。
「死者を構成するのは想いと意志――どうしてわたしの絶望が、孤独が、悲しみが、あなたを上回らないと言えましょうか?」
 そしてジゼルは、何もかもを空虚なものへと塗り替えてしまうような、
 恐ろしく冷たい微笑みで――
 真の魔女たる微笑みで――
 その一言を、少女に与えたのだった。

「あなたの殺した領主は、本当に領主だったのでしょうか?」

 ◇◇◇

 こうして、そのちっぽけで悲しい死者の世界は――
  痛みすら失った L o s t P a i n のだった。


 Fin.