Boy meets Girl

 その時、ミシェルはまだ十歳だった。そして退屈な思いをしていた。
 ミシェルは過保護に育てられていたが、それでも当時は自由だったと言っても良いだろう。十歳のミシェルは、まだ子供として振る舞うことを許されていた。後々の運命を思えば、この時代は彼の生涯において幸せな部類だったのだ。
 ミシェルはボランジェ家の中で自分がどういう立場なのか十歳ながら理解していたので、まわりを困らせるような我がままや反抗はしてこなかった。とはいえ、従順にしていても溜まるものは溜まる。退屈ばかりはどうあがこうとも消し去ることが出来ない。そこに付け入る隙があれば余計に、だ。つまりその日は「母様の言うことを聞いて」が口癖になっているような、口の煩い母が不在だったのだ。
 だから退屈とは遠くあるべきで、何か特別なことが出来るはずだった。いつもとは異なる素晴らしい一日にすべきだったのだ。母に連れだって侍女やら使用人やらも出払っているので、ミシェルが少しばかり気ままな振る舞いをしたところで、誰も咎めないだろう。
 しかし、こんな風に暇を持て余す時に何をすればいいのか、何がやれるのか、ミシェルには分からなかった。せっかくの自由も、活用の仕方を知らないのでは無為に時間が流れるだけだろう。
(そうだ、こういう時は兄さんを頼ろう)
 同年代より大人びているミシェルではあったが、それでも子供であることには変わりない。ミシェルは素直に、兄なら何か楽しい提案をしてくれるはず、と信じていた。
 長兄のディディエが居てくれたらチェスの相手を頼んだり、あるいは彼の訓練を見学させてもらえたのだが、残念ながら今日は不在だった。家にいるのは変わり者の次兄だ。何やら大作を作ると息巻いて、部屋に閉じこもって早十日。あれから次兄の姿をまったく見ていない。
 ひょっとして死んでいるんじゃないだろうか?
 一瞬そんなことを考えてしまう。
 第一発見者になるのは嫌だな。
 更にそんなことまで考え始める。
 もっとも冗談半分の思考なので、本当に次兄の死体があるなんて思っていない。大方作業に没頭してまわりが見えなくなっているのだろう。
 ミシェルは次兄の部屋に向かい始めた。いつもなら自室から移動するだけでも使用人の数人とすれ違うのだが、今日はまるで屋敷がもぬけの殻となったかのように静まり返っている。鼻歌でも歌いたい気分だったが、肝心の歌が出てこない。娯楽や芸術の類はとにかく疎いのだ。そういう時、ミシェルは自分がとてもつまらない空っぽの人間に思えてならなくなる。
 ともあれ今日は、その程度のことで憂鬱にはなる必要はなかった。ミシェルは次兄の部屋の前で申し訳程度にノックをし、室内に入った。
「ジョルジュ兄さん、お話が――」だがその続きは声に出せなかった。
 ジョルジュは大の字で倒れていた。まるで死体だ。本当に第一発見者だ。咄嗟に駆け寄ることも出来ず、ミシェルは出来の悪い彫刻と化したかのように真っ青になって固まっていた。ずっと締め切っていた所為か、部屋の空気そのものも澱んでいるような気がした。
「に、兄さんっ!」
 ようやく声を張り上げ、駆け寄って膝を折る。第一発見者になるのは嫌だとか思ってしまった所為で、罰が当たったのだろうか。その時のミシェルは十歳の子供らしく嘆き、泣き出しそうになりながら兄を揺さぶった。
「兄さん、兄さんしっかりしてください、一体何が――」
「はっ!!」
「はっ!?」
 死体改め次兄ががばりと身を起こす。あまりの勢いに絵の具臭い風が巻き上がり、ミシェルは数歩分這うようにして後ずさった。どきどきと心臓だけがやかましく主張している。
 ジョルジュはぼんやりした顔で、描き途中のキャンパスを見て、そしてため息をついた。ミシェルは訳が分からないままだった。
「に、兄さん、大丈夫ですか。具合が悪いのなら休んだ方が……」
「あれ、ミシェルいたんだ?」
「…………」
 しかも存在すら認知されていない有様だ。この次兄に対して必死になってしまったこと自体、もはや忘れ去りたくなってくる。
「あんなに人を不安にさせておいて、居たんだ、はないでしょう……!」
「へ? なんで心配? ただ寝てただけなのに」
「寝るならベッドで寝てくださいっ!」
 ミシェルの怒りもどこ吹く風で、ジョルジュはへらへらと笑った。
「ていうか、ぼくに何か用事があったんじゃないのかい?」
「ああ……ええと……。今日は母様がお出かけになっていて……侍女や使用人もほとんど出払っているんです」
「何か困ったことが起きたの?」
「いえ、困るようなことは何も起きていないのですが」
「…………?」
 ジョルジュは大きく首を傾げて、そのままの姿勢で「ああ」と手を打った。
「要するに、暇なわけだ!」
 まったくもってその通りなのだが、素直に「暇なので構って欲しい」とは言いだせなかった。ミシェルは視線を逸らしながらぼそぼそと「暇というほどではありませんが、こうも人が出払う日も珍しいですから、その」と回りくどい言い方をする。
 その姿を見ながらジョルジュはにやにやと笑い、にやけ面のまま「そうだなあ」と呟く。それは悪戯小僧そのものだった。ミシェルはからかわれるのかと思って、少し身構えた。
「うん、時にはスリルも刺激も必要だよね。ぼくも絵が行き詰まっていて困っていたところだし……」
 だが、彼から発せられたのは、予想とは異なる言葉だった。
「街に下りようか!」
 ミシェルは大きく目を見開いた。

 ◇◇◇

 再三ではあるが、ミシェルは過保護に育てられてきた。
 それは、ミシェルの“太陽に弱い”という体質の所為ではあったが、それ以上に彼が“貴族の娘”という立場だったからだ。陽に当たったらすぐに死んでしまうという話でもないのだから、彼が市井の民であれば外を気軽に歩くことくらい問題なかっただろう。
 街に下りることも、一年に一度あれば良い方だ。そして大抵、ゆっくりと巡る暇もない。彼にとって、街というものはすぐ近くにある宝の山でありながら、触れてはならない劇薬のようなものだった。おあずけを命じられて飢えていく犬のような気分。
 だからこそミシェルの心は高鳴っていた。彼が奔放に育てられていたのなら、飛び跳ねて踊りくるったかもしれない。それくらいの勢いでその心は喜びに満たされていたのだ。
 もちろん、必死に抑えこんいるので、間違っても大騒ぎはしなかったが。
 二人が到着した首都の中心地は、ミシェルが想像していた以上に賑わっていた。一体、どこから湧いて出てくるのだろうと思えるほどの人々が、あっちへこっちへと行き交っている。店舗の軒先から飛び交うのは、屋敷で聞く上品な声とはまったく違うがらがらに嗄れた大声だ。樽の上に鎮座する小汚い猫は、ぎらついた野生の目でミシェルを見ていた。
 神経質な母親はこの光景を嫌うだろう。騒がしい、野蛮だと、切って捨てるかもしれない。しかしミシェルにはその雑多な世界こそが美しく見えた。
 緊張と喜びに満たさているミシェルを横目見て、ジョルジュは愉快そうに笑った。
「これは思った以上にスリルと刺激があるなあ」
「……街に下りるのは危険なことなのですか?」
「そうサ! 少しでも気を抜いたら最後、生きては戻れない……それが街というもの! だから人に騙されてはいけない! 悪いやつに捕まって鍋に放り込まれて、骨までむしゃむしゃ食われちゃうよ!」
「えっ……!」
 ミシェルは真に受けて青ざめた。しかしそれも少しの間しか持たなかった。ジョルジュがミシェルの狼狽えっぷりを見て大爆笑したからだ。
 騙された。今度は赤面する。ミシェルの顔は青くなったり赤くなったりと忙しかった。
「誰よりも人を騙しているのは兄さんじゃないですか!」
「騙してなんかないよ、こういうのは可愛いお茶目って言うのサ。ふふん、こういうのに引っかかるってことはミシェルもまだまだ子供だね」
「…………」
 ミシェルは心に決めた。いつかこの兄を言い負かしてやろうと。
「スリルと刺激って言ったのは、」ジョルジュが不機嫌そうなミシェルを横目で見ながら、器用にウインクをしながら言った。「このことサ」
 そして彼は、ミシェルを指さして続けた。
「バレたら大変なことになるからね」
 ……確かに、その通りだ。ボランジェ家の娘が貧しい格好で街をふらついていた、なんて家の誰かに知られたら大目玉を喰らうだろう。
 ミシェルは今、平民の子供の姿をしている。貴族らしいドレスではなくくたびれたケープに、髪も適当にまとめて帽子の中に突っ込んでいる。一見する程度では貴族の娘だとは思われないだろう。とはいえどうにもぎこちなく、浮いている感が否めないのだが。
 ジョルジュの平民姿は堂に入ったもので、旅人だとか流しの吟遊詩人だとか言われれば信じてしまいそうな気がする。彼は度々こうして街に繰り出しているのだ。
「兄さんは本当に変わり者ですね……」
「そんなことは分かりきってるでしょう?」
「まあ、そうなんですけど」
「そしてそんなところが、ぼくの魅力なのサ!」
「……兄さんの非常に前向きなところ、うらやましいです」
 きっと、ジョルジュくらいだろう。面倒事すらも楽しみの一つとして捉えられるのは。仮に使用人の誰かに「変装して街に忍び込みたいから手伝ってくれ」なんてお願いをすれば、その人は真っ青になって「勘弁してください、私の首が飛びます」と言うはずだ。
 ジョルジュはボランジェ家の人間だから首が飛ぶということはないが、それでもミシェルを勝手に外に連れ出し、更に街をうろつかせたというのはまずい。
 ……ジョルジュ兄さんがいてくれて良かった。
 しかしミシェルは結局何も言わなかった。照れもあったし、何よりからかわれる気がしてならなかった。
「さあて、どこへ行こうか。酒場なんかに繰り出して、安い酒でも飲みながら吟遊詩人に銀貨を渡してみるかい?」
「さ、最初から酒場なんて、難易度が高いですよ……!」
「そう? 別に魔物の巣窟ってわけでもないんだし、気楽にしてればいいと思うけど」
「でも子供が入れるような場所じゃ」
「さすがのぼくでも、やらしい酒場になんか連れてかないサ。表通りの酒場はね、この時間は大抵食堂であって、宿屋でもあるんだ。人がたくさんいるし楽しいよ」
「……兄さんがそう言うのなら……」
 人がたくさんいること自体、楽しさより不安と恐怖が混じるのだが。一人で突入するという話でもないし、確かに興味も引かれる。ミシェルは恐る恐る頷いた。
「まあ、怖かったらぼくの手を繋いでいればいいしサ! さあ行こうではないか、勇敢な小さき戦士よ! ぼくに続けー!」
 陽気でひょうきんな兄に対し、素直になるのは不愉快でもあったのだが、結局本能には逆らえない。ミシェルは兄の服を掴んで、表通りを歩くことにした。
 ――始めのうちは。

 ◇◇◇

「…………」
 往来の真ん中で、ミシェルは呆然としていた。右を見ても左を見ても、兄の姿がない。
 はぐれた?
 いやまさか。だって、ついさっきまでそこにいたというのに。きっと人が多すぎて見えなくなっているだけだ。まだはぐれたわけじゃない。そう、まさかこの自分が、はぐれるわけがない。
 そう持論を展開したところで、現状はどう見ても、迷子だった。
 あれはまだ、酒場に辿りつく前の話だった。表通りを歩いている途中、ジョルジュは知り合いの女の子を見つけ長話をし始めた。飽きてきたミシェルは、少しだけ一人で通りを歩いてみた。そのほんの少しが、思わぬ結果を招いてしまった。
 自分がはぐれたのだとは思いたくなくて、兄らしき背格好の人間を見つける度に追って、表通りからどんどん離れていく。そんな悪循環に気づいた頃には、すっかり来た道が分からなくなっていた。
 表通りの賑やかさとは打って変わって、ずいぶんと静かだ。街の景色に慣れていないミシェルには、この静けさが果たして良いものなのか悪いものなのか判別がつかない。単純に商いの区域から離れて生活区域に入っただけなのかもしれない。逆に、人気のない裏通りというやつに出てしまったのかもしれない。後者であれば、早く立ち去った方がいい。得てしてそういう場所にはあぶれ者がたむろするものだ。
 万が一貴族の子供だとばれてしまったら、何が起きるか分からない。
「…………」
 しかし人見知りが災いし助けを頼むことも出来ず、かといって泣き喚いたりすることも出来なかった。震えているのだって見られたくなくて、唇を噛み締める。
(なんで書物には、はぐれた時の対処法が書いていないんだ……!)
 ついにはあらぬ方向へ怒りを向け始めたミシェルだったが、その時ふと、恰幅の良い壮年の女が、こちらをじっと見つめていることに気づいた。
『悪いやつに捕まって鍋に放り込まれて、骨までむしゃむしゃ食われちゃうよ!』
 嘘だと分かっていながら、あの時のジョルジュの言葉が蘇る。悪いやつとは程遠い善人面した女だったが、一人きりになってしまったミシェルは疑い深くなっていた。威嚇しながら歩いている猫のごとくだ。
 壮年の女に睨みをきかせ、警戒をしていた矢先――向こうの方から口を開く。
 それは当初、まったく意味不明な言葉に思えた。
「まあ、えらいわねえ。子供二人でお買い物? 気を付けて帰るのよ?」
「……え?」
 子供二人? 何を言っているんだこの人は。よもや訳の分からぬことを言って惑わす作戦か? そうなのか? そして連れ攫った挙句、身代金を……。
「ねえ、ねえ」
 くいくいと、裾を引く感覚がある。
「っ!?」
 ミシェルが慌てて振り返ると、幼い女児が指をしゃぶりながら見上げていた。どうやら聞こえたのは、この女児の声らしい。
「あなた、だれなの?」
 いや、お前が誰だ。
 本日二度目の呆然だった。

 ◇◇◇

「あのね、おとうさんがね、はぐれたの」
「はぐれたのは貴女の方でしょうが……」
「あなたははぐれたの?」
「……はぐれたのは兄の方です」
「わたしたち、おなじだわ!」
「同レベルにしないでください!」
 ミシェルは憤慨しながらも、真面目に女児の話を聞いていた。どうやら年は三歳で、買い物の途中ではぐれてしまったらしい。自分一人でも大変なのに、この上迷子の面倒まで見なければならないなんて。少女――いや幼女の存在に気付いた瞬間に、あのおばさんにすがっていれば良かった。しかし気を取られている間に、おばさんは「がんばりなさいね」と言いながら路地の向こうに消えてしまったのだ。結局引き止めることも出来ず、ミシェルは突然降ってわいた災難と向き合う羽目になった。
 厄介なことではあったが、このまま置き去りにするわけにもいかない。自分の方が年上なのだから、しっかりしなければ。ミシェルは気を引き締め直して、彼女に視線を合わせながら「貴女の家を探しましょう。手伝いますから」と言った。
「家の近くに、何か目印になるものはありますか?」
 うーん、ううーん。女児は長いこと考えこみ、あっ、と大きな声を上げた。
「ある!」
「では、それを教えてください」
 もしかしたら迷子の件は簡単に片付くかもしれない。そう思って、ほっとしかけて――
「ちゃ色のネコがいた!」
 思い切り脱力した。
「猫じゃ動いちゃうでしょうが……!」
「とっても目つきがわるいの!」
「ああもう、猫から離れてください! 教えて欲しいのは、その場から動かないものです!」
「ええとねー……、そうだわ! いつもひなたぼっこしてるカジミール爺さんがいるわ」
「人もダメ!」
「えーどうしてー。朝から晩まで、ぜんぜんうごかないのに」
「もっと見つけやすいものにしてください! 建物とかないんですか!?」
「たてものならたくさんあるわ! お隣のおうちは、お花をうえてるの。あかい花で、とってもかわいいんだから」
「そうじゃなくて……! もっとこう、誰に聞いても分かるような、シンボル的なものです! それくらい――」
 分かるでしょう、と声を荒げそうになって、寸前で飲み込んだ。ミシェルの声と表情が怒気を孕んでいったのを肌で感じたのだろう、彼女の瞳は不安げだった。その顔も、少し泣き出しそうに見えた。
 この子は茶化しているわけでも、悪気があるわけでもないのだ。彼女なりに真面目に受け答えていたのだと分かって、ミシェルはバツの悪い表情を浮かべた。
「おこってる?」
「い、いえ、怒ってないです……」
 ミシェルはゆっくりと息を吐きだして、自分自身を諌めた。相手はこんなに小さい子供なのだ、会話が成り立たない程度で怒ってはならない。
(でも、どうすればいいのか……)
 ボランジェ家という箱庭の中でミシェルが接してきたのは、大人ばかりだ。兄も年が離れているし、会話が通じないなんて事態は経験してこなかった。正直、どうしたらいいのかさっぱりだ。ただでさえ社交スキルの低い自分に、この小さな娘を助けることなんて出来るのかどうか……。
「ほうせきみたい!」
 と、思い悩むミシェルに、突然に幼女の手が伸びた。まるっこくて、やわらかい、別の生き物みたいな手がぺたりと目元に触れる。ミシェルは不意をつかれて固まっていた。
 さっきまで泣きそうな顔をしていたのに、今は好奇心いっぱいに輝いている。会話だって脈絡がない。一体何が宝石なのか。
 小さい子供というのはこういうものなのだろうか。自分もかつてはこうだったのだろうか。
「あ、あの」
「おめめ、いたくないの?」
「え? 痛いって、なぜ……?」
「ほうせきが入っているから」
 ああ、宝石というのは、この赤い色をした目のことか。
 ミシェルは納得した、が、少し苦い思いもした。自分の目の色も、髪の色も、肌の色も、どれも好きではなかった。これさえなければもっと自由だったのにと思わずにはいられない。
「いえ、私の目は元からこういう色なので……宝石も入っていないし、痛みもないです」
「そうなの? すてきね!」
「…………」
 素敵。
 ミシェルはその言葉を聞いて、なんだかくすぐったい気持ちになった。自分の目の色は好きじゃないと、その話題に触れられるのは苦手だと、そう思っていたくせに。
 母や使用人だって赤い瞳を特別なものとして扱うし、褒められたこともある。なのに初めて素直に素敵だと言われたような気がするのは、なぜなのだろうか。
 何一つ、不純物がなかったからか。
 母の褒め言葉には、その背後に天使の存在が控えている。使用人の褒め言葉には、家柄が控えている。だから彼女らに「素敵」と言われても、その対象は自分ではないのだと心の奥底で理解してしまっているのだ。
 でも、この子は、何の含みもなく心底憧れている。
 敵意も妬みも、同情も蔑視も、何もない。
 純粋な輝きに満ちている彼女の目の方が、ずっと素敵だと思えた。
「……普通の色の方が、素敵だと思いますよ」
 そう言ったミシェルの声は、言葉に反して柔らかい響きをしていた。
「とりあえず、人通りの多いところまで出ましょう」
 ミシェルは立ち上がって、いくらか逡巡した後に、彼女に手を差し出した。幼女はためらいもなく彼の手を掴む。おっかなびっくりといった態度を取っているのは、むしろミシェルの方だった。
「おにいちゃん、まいごなんだものね。わたしがつれていってあげるわ」
「だから迷子じゃないと言ったはずです! ……って、お兄ちゃん?」
「ちがうの?」
「あ……いや」
 そうか、今は平民の姿をしているし、何より少女より少年だと思われた方が安全だとジョルジュが言って、男の子の格好をしているのだった。……こういう時、本当はどんな感情を抱くべきなのだろう。間違われて不快に感じるのか? それとも気恥ずかしさか? あるいは騙して申し訳ないという罪悪感?
 ミシェルの心にあったのは、そのどれでもなかった。負の要素は一切なく、むしろ「認められた」という喜びと誇らしさに近かった。彼自身、どうしてそう思うのか、この時にはまだ理由が分からなかったのだが。
 ただほんの少しだけ微笑んで、大切な言葉を噛み締めるように「はい、お兄ちゃんで合ってます」と言った。
 宝石などよりも素晴らしい響きだと思った。

 ◇◇◇

 何度か角を曲がり、すれ違う人には勇気を出して道を尋ね、その繰り返しでミシェルは人の多い大通りに出た。ただ、その大通りがジョルジュとはぐれたところと同じかどうかは分からなかった。首都は巨大で、大通りと名のつく道はたくさんある。
 そうこうしているうちに正午を過ぎたようで、鐘の音が鳴り響き始めた。高音が晴天に飲み込まれ、昼の休憩を取る職人たちが、がやがやと通りに現れる。どうやらこの大通りは職人街でもあるらしい。
 職人仕事をしている男たちは、職種は違えどみなしっかりとした身体つきをしていた。身体が資本の商売である以上、脆弱な肉体ではやっていけないのだろう。ミシェルは自然と、彼らに目を奪われていた。
「おにいちゃん、職人さんになりたいの?」
「……どうでしょう。まだ、先のことはあまり考えたことがなくて」
 ミシェルは苦い顔をした。本当は、先のことを考えたことがないのではなく、考えたくないのだ。自分では職人はおろか、騎士にも画家にもなれないのだと分かっていた。
「わたしはね、ちょっとだけ職人さんになりたい! なんでも作れてすてきだから!」
「女の子は職人にはなれないんですよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 だってそういうもので、それが当たり前だから。世の中はそういう風に出来上がっていて、そこから外れることは許されないから。十歳の子供でも分かる世の中の仕組みと、女の子の歩むべき道。彼女だってそのうち理解するはずだ。たくさんのことを諦めて生きていかなかればならないのだと。
「…………どうしてでしょうね」
 けれどミシェルは言えなかった。
 最初は、夢を見る三歳の娘に真実を告げるのは酷だから、言えなかったのだと思った。
 けれど本当は、自分自身が納得出来ていないからだ。どうして自分の進む道には、分かれ道が用意されていないのか。一本道の真っ暗な道しか存在しないのか。
「……職人になって何を作りたいのですか?」
 ミシェルは己の未来から目を逸らすために、話題を変えた。幼女は大きな目をきらきらとさせながら、「革のサンダルとか、かばんとか!」と言う。
「ずいぶん実用的ですね」
 このくらいの小さな子供なら、もっと可愛げのあることを言うのかと思った。おもちゃ、お菓子、あるいは到底作れるはずもない星々とか。
「だって、わたしのおうちに並べられるでしょ」
 家に並べる? 飾るではなく?
 ……ひょっとして。
「貴女のご自宅は、店をやっているのですか?」
「うん!」
 そうか。彼女は商売人の娘だったのだ。だったら、この通りの近辺に家があるかもしれない。職人が働くところの近くには、商店も立ち並んでいるはず。
 ミシェルはすぐに、この辺りに見覚えはありませんかと問おうとした。けれど口を開きかけた矢先、幼女は「あっ!」と声を上げて、ミシェルから手を放した。そして人の波に飛び込んでいこうとする。
「あ、ちょっと!」
 このまま見失ってしまったら、もう見つけ出せない気がする!
 ミシェルも慌てて彼女の背を追った。しかしすぐに屈強な職人にぶつかり、「気をつけろ!」と罵声を浴びせられる。声だけでこっちが吹き飛んでしまいそうだ。怒鳴られるという初めての体験に身を強張らせつつ、それでも前に進む。
 放っておけばいい、なんて考えは浮かばなかった。彼女はさっき会ったばかりの、名前も知らない娘だ。それでも、必ず両親のもとに送り届けなければならない使命感に駆られていた。もはやそれは、ミシェルの性格なのだろう。
 誰にもぶつからずにするすると人の間を縫っていく小さな娘は、まるで物語に登場する妖精か何かのようだった。それに反して、ミシェルは少し走っては人にぶつかり、波に飲みこまれる。翻弄されているのではないかと勘繰りたくなるくらいだ。
「……っはあ!」
 やっとのことで人だかりを抜けると、目の前が広がった。そして飛び込んできた光景に、ミシェルは目を大きくした。幼女が壮年の男に飛びついていて、その男はといえば、眉尻をこれでもかと下げて困り果てた――いやいっそ泣きそうな顔をしていた。
 一目見て、彼女の父親なのだと分かった。
 再会出来たのだ、良かった――と思いながら同時に、父親というのはあんなに子供を心配するものなのか、あんな情けない顔をして良いものなのか、と驚いていた。ミシェルの中にある父親像は厳格で、それでいてそっけないものだ。家族よりも威厳が大事だと顔に出ているようなもので、そしてそれが当たり前なのだと感じていた。子供の前で泣きそうになるなんてあってはならない。みっともないし、格好が悪い。
 ……でも、再会を心から喜ぶ父親の顔を見て、ミシェルは格好悪いとは思わなかった。
「君がうちの娘を見つけてくれたんだね!」
 彼女の父親はミシェルに気が付くと、すぐに近づいてきた。そしてミシェルの両手をしっかりと掴んで、ぶんぶんと上下に振る。「本当にありがとう! あの子がいないと気づいた瞬間、目の前が真っ暗になったよ! ああ無事で良かった!」そしてオーバーなくらい感謝を伝えて、ミシェルが目を白黒させて「も、もういいです」と言うまで礼を言われた。
 やっと手を放してもらうと、その頃にはぶんぶんされ過ぎてしびれが残るくらいだった。父親はまたも困った顔をして、「ごめん、ごめん、やりすぎてしまった」と言う。どうも抜けた印象のある人だった。
 幼女は父親の足に絡みつきながら、にこにこと「おとうさん、もうはぐれちゃだめよ」と言う。父親は「はぐれたのはお前だろうが」と肩を落としながらも、安堵の方が上回って怒る気も出ないようで、すぐに笑顔になっていた。
 そのやり取りを見ていると、こちらまで気が緩んでくる。一仕事終えた気持ちになって、ミシェルはほっと息をついた。なんだか騒がしい目に遭ったけれど、無事に見つけられて良かった。
「ところで君は一人でこの子を連れてきてくれたのかい?」
「あ」
 しかし一仕事終わったも何も、むしろこれからだった。これは横道に逸れただけで、自分の仕事はまだ片付いていなかった。
 ミシェルは言いにくそうに「兄と一緒にいたのですが、その、途中ではぐれまして」と口にする。それを聞いて幼女の方が「なあんだ」と先に口を開いた。
「やっぱりおにいちゃん、迷子だったんだわ」
「う……」
 迷子じゃないと否定したかったが、大人の前では無意味だ。恥ずかしくなって俯いていると、彼女の父親が朗らかに笑って、ミシェルの頭に手を置いた。
「じゃあ、僕たちが一緒に探そう。すぐに見つけてやらないとな。きっとお兄さんも、君がいなくなって目の前が真っ暗になっているはずだから」
 そんなことはないですよ、とミシェルは小声で言ったが、内心そうであればいいなと思っていた。

 ◇◇◇

 表通りの酒場の話をすると、彼女の父親はすぐに見当がついたようで、程なくして店の前に辿りついた。やはり土地勘のある人間に連れてきてもらうとすぐだ。あんなに路地を行ったり来たりしたのが嘘のようだった。
 ジョルジュが最初に言っていたように、表通りの酒場は食堂として機能していて、この時間は休憩中の男たちでごった返していた。静かな食事に慣れていたミシェルは、こんなやかましい昼食があるのだと初めて知った。まるでお祭り騒ぎのように見えた。
 そして店の軒先でうろうろとしている不審者も、すぐに発見出来た。間違いなく兄のジョルジュだった。ジョルジュはミシェルを見つけると「ミ、ミ、ミシェルッ!」と大慌てで駆け寄ってきた。慌て過ぎて一度こけたくらいだ。その焦りっぷりと言ったら滑稽にも見えるほどで、けれどジョルジュが慌ててくれればくれるほど、ミシェルは嬉しくなった。
 あの娘の父親も、「ほらな」と笑っていた。

 ◇◇◇

「ジョルジュ兄さん」
「ん?」
 一段落ついてあの親子と別れてから、ジョルジュとミシェルは遅めの昼食を取っていた。肉の切れ端を手づかみで運びパンを皿代わりにして食べるという、食器を使わない原始的なやり方にミシェルは苦労しながら、なんとなくを装って、兄に問いかけた。
「…………心配しましたか?」
 ジョルジュは頬張ったものを薄い葡萄酒と共に飲み干して、何度か胸を叩いた。そしてげっぷを零す。そんな汚い仕草をする兄を始めて見た。ここではそれが許される――というより、その方が普通なのだろう。
「何言ってんの、心配しないわけがないでしょーに。もう目の前もお先も真っ暗だったよ」
「刺激とスリルどころじゃなくなってしまいますものね、母様に叱られるし」
「そりゃ叱られるのもまずいけど――」
 ジョルジュは苦笑を浮かべた。いつもへらへらとしている次兄だったが、その時の表情はずいぶんと柔らかく見えた。
「もっと単純なことだって。ミシェルに何かあったら大変でしょう」
 ミシェルは食事の手を止めて、目を見開いた。
「兄さんは私がいなくなっても、ひょうひょうとしてるものかと」
「きみはぼくをどこまで冷血漢だと思っているんだい」
「……冗談です」
 ミシェルはちらりと、兄のふてくされた顔を見た。朗らかに笑ってみせたかったが、ミシェルの口元に浮かぶのは押し殺したような微笑だった。けれど微笑みすらあまり浮かべないミシェルにしてみたら、今日はたくさん笑っている方だ。
「……あの」
「ん?」
「勝手にいなくなってしまって、すみませんでした」
 今度はジョルジュが大きく目を見開いて、「驚いた」と口にする。
「ミシェルが素直に謝るなんて!」
「兄さんは私がどこまで捻くれてると思っているんですか?」
「アハハ、冗談だよ。ぼくも悪かったよ、目を離しちゃってサ」
「本当ですよ、女性ばかり見て」
「いやそこは、お互い様でしたね、って言って済ますところだって」
 ジョルジュが眉尻を大きく下げながら嘆いて、けれど、すぐに笑顔になる。ミシェルも少しだけつられた。
 自分がいなくなっても、きっと父は情けなく慌てたりしないだろう。威厳が一番大事だと思っている顔のままなのだろう。でも、兄はそうじゃない。兄はみっともなく慌てて、泣きそうになって、焦ってくれた。
 だから――それで充分だ。
 充分幸せだ。あの女の子を羨む必要なんて全くない。自分も家族に恵まれている。
 ミシェルは心からそう思った。そして、それを再認識できたことが幸せだった。
「……兄さん」
「ん?」
「また、街に下りたいです」
「そだね、また来よう。母さんも親父も、それから厳しい兄貴も、みいんな居ない時にサ」
 全員が出かけている時なんて滅多にないのだから、こんなことは後にも先にも一度きりなのかもしれない。けれど、また気軽に街を訪れる日をミシェルは夢見た。もしかしたら数年後かもしれない。それでもいい、これが最後にさえならなければ。
 そしてもう一度、この街に来た時は。
 あの女の子に会いに行こう。表通りの店に立ち寄って、もしも革のサンダルや鞄があったら、買ってみよう。
 そしてそれが出来たら――あの子の名前も聞いてみよう。
 数年後も、彼女は私のことを覚えているだろうか?
 数年後も、私は彼女のことを覚えているだろうか?
 きっと、どちらも忘れてしまうのだろうし、それが現実なのだろうけれど――夢を見るくらいは構わないはずだ。

 あの子の柔らかい手のひらを思い出す。
 それから、好奇心で満たされた大きな瞳も。

 それは、きらきらと光輝く翡翠色だった。



 Fin.