T.Lost

「あのぅ……旦那さま。お暇をいただくのをお許しくださいませんか」
 秋の昼下がり、まだ年の若いメイドの休暇願い――いや実質退職願いを、ヤコポは書斎で聞いていた。
 慣れた仕草で葉巻に火をつけて、長いため息と共に煙を吐き出す。またか、という想いで一杯だったが、表情に出さないようにして「理由は何だね」と問いかける。
「待遇が不満か? それほど手厳しい扱いはしていないはずだぞ」
「待遇については、むしろ、前のところより良くして頂いていて……何も不満はなかったんですけど」
「だったらなぜだ? こちらとしてもな、君がすぐ辞めるようなメイドだと分かっていれば雇わずに済んだのだ。ようやく君の仕事ぶりもまともになったというのに……これでは支払い損だ」
「ご、ごめんなさい」
「理由を言えと言っているのだ」
 疲労と苛立ちと叱責の混じった低い声は、若いメイドを益々萎縮させた。彼はまた重たいため息をつきかけて、心の中で「若者というのはこんなに腑抜けていたか?」と愚痴をこぼす。誰にも零せないぼやきは、彼の胸に溜まり続ける一方だった。
「理由は、その……」
「はっきり言いたまえ。私の性格はもう分かっているのだろう? 私はな、うじうじされるのが嫌いなのだよ」
 若いメイドは恐る恐る、館の主を見た。棘のあるダークブラウンの眼差しに睨まれると、内臓がきゅっと締め上げられる思いだった。先輩のメイドからは「旦那さまも以前よりずいぶん丸くなったのよ」などと言われていたが、彼女にとってはまったくそうは見えなかった。
 一人身の気難しい壮年の男は、彼女にとってはやはり畏怖の対象だった。
 だがそれでも、畏怖の対象たる彼に頭を下げてでも辞めたいと思うほど、もっと恐ろしいものがあったのだ。
「メイド長が、怖いんです」
 ヤコポは怪訝に片目を細めた。彼としては、「あなたの態度が恐ろしい」と言われる方を予測していたのだ。
「メイド長が君に何かしたのかね?」
「いいえ、特に何も……」
「だったら何故なんだ」
 彼の苛立ちと共に、葉巻から灰が落ちる。
 若いメイドは困惑した表情のまま、すっと顔を上げた。

「旦那さまは恐ろしくないのですか? だってあの人、ずっと容姿が変わらないんですよ!」

 ◇◇◇

 ここ数年の間、要領を得ない理由で辞めていくメイドが増えていたのだが、今日の一件でヤコポはその訳を知り、確かになるほどとも思っていた。
 彼がこの館を買い取ったのは、まだ二十二の時だった。一族と組織の威信をかけて、新大陸への礎を築くために、彼はこの地を踏んだ。肩に圧し掛かる期待とプレッシャーは重苦しいものであったが、それでもまだ、あの時は前向きな青年だった。上手くやり抜かなければという気概のおかげで言動こそ強気だったものの、他者への優しさは失っていなかったのだ。
 だからだろう、彼が、あの素性の分からない謎めいたメイドを雇ったのは。
 長い黒髪のメイドは、最初から館に居た。何食わぬ顔でヤコポのことを「旦那さま」と呼び、館の内部を案内し、仕事を始めた。ヤコポは当初「なんだこの女は」と思っていたが、実際にてきぱきと要領よく仕事をこなしていく姿を見ると、次第に彼女への悪印象が薄れ、最後には感心すら覚えたのだった。
「君の主人はどこにいったんだ」
 そう問うと、彼女はとても整った微笑を浮かべ、「前の主は亡くなりましたわ。今は、この屋敷を買い取ったあなた様こそ、わたくしの新たな主でございます」と告げたのだった。
 前の主から新しい勤め先の斡旋もされずに、放置されてしまったのだろう――そう考えたヤコポは、彼女の望むままにメイドとして残すことにしたのだった。仕事を与えるのは上に立つ者の役目だ。彼も悪い気はしなかった。
 それ以来、いつから彼女がここにいて、どうしてメイドをやっているのか、彼女が本当は何者であるのかといったプライベートに関わる質問はしてこなかった。仕事を上手くこなしてくれれば、それで良かったのだ。
 だが、あれから実に十年以上が経過している。
 ヤコポはもう三十五の壮年だ。
 だがそのメイドは、変わらず、二十歳前後の美しさを保っているのだった。

 ◇◇◇

「…………」
 天井へ向かってゆらゆらとくゆる葉巻の煙を眺めながら、彼にしては珍しくぼんやりとしていた。若いメイドはもう館を旅立ち、実家なり何なりに帰ってしまった。新しい職場を斡旋してやる気もあったが、こう何人も続くようではいい加減紹介先も失せるというものだ。
 軽やかなノックの音が響いて、彼の意識がゆっくりと引き戻されていった。「誰だ」と問うと、「わたくしでございます」と例のメイドの声がする。入室を許可すると、扉の奥から現れるのは、やはり初めての出会いからまったく容姿の変わらない女であった。
 彼女は流れるような美しい所作で部屋の中心まで進んだ。足音すら聞こえてこない。まるで彼女が亡霊であるかのような心地だった。
「先ほどメイドが一人辞めてしまったようですから、彼女が抜けた分、仕事の配分を考え直さなければいけないなと思いまして」
「いつも通りだ、メイドへの指示は君に任せる。新しい者はこちらで探しておく」
「かしこまりました」
 彼女は微笑みを浮かべたまま、静かに一礼をした。
 普段ならそこでやり取りが終わり、メイド長も退出していくものなのだが、今日に限ってそうはならない。底の読めない翡翠の瞳を、彼にじっと向けている。
「……なんだ」
 彼は怪訝な顔をした。内心、不気味さも少し感じていた。
「わたくしを辞めさせようとは思わないんですの?」
 そんな台詞を告げる時ですら、やはり彼女は変わらぬ微笑を浮かべている。良くできた仮面のような顔で、彼女は続けた。
「わたくし、分かっているんですのよ。メイドたちが辞めていく理由はわたくしにあるのだと。ほら、わたくし……こうでございましょう? ですからメイドたちの間で不気味な噂が広がっているのです。若い方なんて特に繊細ですから、信じ込んでしまうんでしょうね」
「…………」
「わたくしを辞めさせようとは思わないんですの?」
 彼は灰を落として、ゆっくりと背もたれに身体を沈めた。確かにそれも考えたことがある。しかし彼の中で結論は揺るがなかった。
「未熟なメイドが何人辞めようが、君が居る方が仕事が回る」
「まあ。わたくし、ずいぶんと買われているのですね」
「ふん、私はこれでも有能な人間はきちんと評価する方だぞ。君は仕事が出来る。まったく本当に――数百年メイドをやっていたのかと思うくらいにな」
「あら」彼女は微笑みをより一層深めた。「うふふ、ご冗談を」
「数百年もメイドをやっていたら、わたくし、幽霊ではありませんか」
 事実そうなのではないのかね――と、言葉が出掛かった。数年くらい前までは、やたらと若作りの上手い女なのだろうと理由をつけることも出来た。だがさすがに、これはもう若作り云々の範疇ではない。亡霊だの何だのといった超常現象めいた話は好きではなかったが、最早現実的な理由を見つけるのが難しい域だ。
「少し、世間話をしていかないかね。君についていくつか聞きたいこともある」
 彼がそう切り出すと、彼女は目を大きくした。微笑み以外の表情を見るのも久しぶりだったが、その驚きの顔すらもやはり作り物めいていた。彼女の喜怒哀楽すべては、ある一定の範囲内で収まっている。
「旦那さまが、わたくしにご興味を示されるなんて。明日は嵐でしょうか」
「そうだな、雨具を用意しておくといい」
「ふふ……。それで、なんでしょうか」
「君は何者だ?」
 世間話という割には単刀直入な物言いに、メイド長は少し楽しそうに笑った。
「わたくしはただの女中でございます」
「……そう返されるような気もしていたがな。では次だ。君の前の主というのは何者だ」
「人のような、獣のような、不安定な方でしたわ」
「ああ? なんだそれは。碌な主ではないな。賃金はきちんと貰っていたのかね?」
「いいえ、あの時はお屋敷もぼろぼろでございましたから」
 彼はまた煙と共に長い息を吐いた。まったく、一体いつの話をしているというのだ、この女は。その感情が表情にありありと出ていた。彼が館を買い取った時は、今風ではなかったものの外装も内装も美しく整っていた。館がぼろぼろであった――その話を鵜呑みにするのならば、二十年や三十年程度の前の話では済まないだろう。
 追及してやりたかったが、微笑みと共にはぐらかされる気がしてならなかった。彼は葉巻を咥えて、「ならその前の主は」と聞いた。
「可愛らしい兄妹……のお父上でございました。まあ、お父上はほとんどお帰りにならなかったので、実際のところはご家族皆様が主という感じでしたわ。……貴族の方々で、良くしていただいておりました」
「ふん、貴族がこの館を所有していた時期があったとはな」
「まあ。わたくしの話を、信じてくださるのですか?」
「その言い方だと、自分の話が荒唐無稽であると理解しているのかね?」
「ええ、少なくとも、あなた様にはそう聞こえるだろうと」
「……確かに鵜呑みにはしておらんがな。話半分程度に聞くには充分な世間話だろう。それで、その前の主は?」
「その兄妹の祖父君でございます。わたくしに侍女としての……いいえメイドとしての作法を教えてくださったのは、この方でしたわ。薔薇がお好きな方で……わたくしもよく一緒に花を眺めておりました」
 薔薇、という単語を耳にした時、彼の表情に苦みが浮かんだ。その花の名は、彼の重たい罪を思い起こさせるものだった。
 一瞬だけ、窓辺に視線を投げる。ゆっくりと瞬きをして、「そうか」と低く呟いた。
「なら……その前の主は」
「その前は――」
 彼女はふと、顔を上げた。
 そして僅かな――けれど見逃すわけにはいかない――彼女らしからぬ奇妙な間が出来上がる。唇だけは相変わらず気味が悪いほど丁寧な弧を描いているのだが、瞳に宿す感情に亀裂が入ったような気がした。ガラス細工のような美しい翡翠の奥に、慎重に隠されていた澱みが、すっと目の前に現れたような。
 どこか果てしない遠い世界を見る疲れ果てた女の顔が、彼女に被さる。
 だがそれも瞬きの瞬間に消えてしまった。
「その前に存在するのは、わたくしの焦がれる待ち人でございます。ですから、主というには語弊がありましょう。わたくしはあの方を待つのが楽しみで仕方ないのですわ」
「……そうか。まあ深くは聞くまい」
 彼女はにっこりと笑った。
 彼は追及しないことが配慮であると分かっていた。
 何より、彼と彼女は深い関係ではないのだ。優秀なメイド、そして雇い主。それ以上のものではなかった。
「では次の質問だ。まったくこんな話を今更するのは、自分でもどうかと思っているのだがな――」
 彼はそう前置きをして、彼女に問いかけた。
「君の名前は何と言うのだ?」
 ……改めて言葉にしてみると、とんでもない話だった。名前も知らない女を十年の間雇い続けてきたのだ。他のメイドは当然名前も出自もはっきりさせている。何者かはっきりと理解した上で契約を結んでいるのだから。
 だがメイド長に至ってはその契約すら交わしていないのだ。仕事に関して言えば己の些細なミスすら許さない彼にとって、異常とも言える行いだった。
 彼自身、どうしてそれを許せたのか分からない。
 何かそうさせるような、得体の知れない力が働いていたとしか思えなかった。
「まあ……わたくしの名前だなんて。いつも通り、メイド長と呼んでくだされば」
「館の主人が名を名乗れと言っているのだ、答えたまえ」
 いつもの彼らしい居丈高な物言いに、彼女はいつも通りの微笑みを浮かべた。
 しかし、今や彼女が、自身のものである思い込んでしまったその名を告げた瞬間――
 二人の空気に大きな亀裂が入った。

「わたくしの名は、“モルガーナ”でございます」

 彼は大きく目を見開いた。激情的であり過ぎた二十代の時と比べ、声を荒げることも怒鳴ることも少なくなっていたというのに――一切合財が繕えなくなる。
 その理由すらも分からないままに、彼は叫んでいた。
「違うッ!」
 空気がびりびりと震えた。
 勢いよく立ち上がり、椅子がやかましい音を鳴らして倒れる。
 彼女はやはり、仮面の範疇で驚きの表情を浮かべていた。
「違う、その名は、君のものではない……!」
「まあ……、では一体、誰のものだというのです?」
「それ、は…………」
 おかしな人だとでも言うように、メイド長はくすりと微笑む。その氷の微笑を見れば見るほど、心臓がずたずたに切り裂かれる思いだった。突然他人の名前を違うと吐き捨てるなど――客観的に考えても自分の方がおかしいに決まっている。笑う彼女の方が正しいのだ。
 なのに、彼にはどうしても、その名前がメイド長のものであると思えなかった。
「旦那さま。……お手が」
 彼女に指摘されて、ヤコポは初めて、自分が火のついた葉巻を握りしめていたことに気づいた。焦げくさい香りが周囲に漂う。しかし熱すら感じなかった。
 彼は握りつぶした葉巻を叩きつけるようにして捨てた。なぜ自分がこうも、そのたった一つの名で掻き乱されてしまうのか分からない。そして「分からない」という事実がまだ、彼を追い詰めていく。
「……世間話はもう止めましょう。わたくしのことはいつも通り、メイド長と。それでは、失礼いたします」
 彼は何も返答が出来なかった。

 ◇◇◇

 二階の自室の隣には、妻の部屋があった。いや、正確に言うと結婚当初の妻の部屋だ。親友からの密告を真に受けた彼は、妻の部屋を一階へと移してしまったのだから。そしてそれでも疑念が払われず、最後には離れに送り込んだのだ。
 二階の妻の部屋は、結婚をしたその時のまま保たれている。彼女が陽に弱いと知っていたから太陽光を弱める二重カーテンにして……それでも部屋全体が暗くならないように、布地は真っ白なものにして、調度品も優しい木彫りのもので整えた。
 すべて、あの時のまま。
 メイドには毎日欠かさず掃除をさせているのだが、多くのメイドは無駄なことだと思っているので、時折おろそかになっていることもあった。そういう時は昔のように怒鳴りはしないものの、きちんと仕事をしろときつく言い含めるのだった。
 メイドたちは素直に言うことを聞いたが、心の内では呆れているのが見え透いていた。誰もがもう、彼の妻は戻ってこないと思っていた。
 二十六歳の時にすべてを失ってから、彼は妻を捜索し続けていた。自分の足でも情報を探し、探偵も雇って全世界を探させた。しかし結果は出ていない。彼自身ももう、彼女は戻ってこないものだと思い始めていた。……それでも諦めるわけにはいかなかった。
 彼女は心を壊しながらも、彼の訪れを待ち続けた。
 ならば彼も待ち続けなければならない。
 何より彼女の心を破壊したのは彼なのだから。自分にはそれをやる責務がある。
 どうにかもう一度彼女と会って――その目を見て――出来る限りの償いをしたかった。それだけが、本当に欲していた何もかもを失った彼を生かす理由でもあった。
 彼は妻の部屋に無言で佇んでいた。机の上には黄ばんだフェナキストスコープがある。今でも、それを「フェナキのおもちゃ」と呼んで微笑んだ妻の顔が目に浮かぶようだった。自分が取り上げ、破壊した、何よりも大切だった笑顔。

『初めまして』

 彼女の優しい声が耳に響く。慎ましく、控えめで、穏やかな音色。その声を忘れたことはなかった。
『初めまして。私はミシェルです』
 結婚式場で初めて会った花嫁は、控室でそう告げた。その時はまだヴェールで顔も隠れていて、どんな表情を浮かべているのかも分からなかった。ヴェールの下に隠された表情が、慈愛に満ちた微笑みであったと気づくのは、誓いの瞬間だった。
 天使が元になったのだろうとすぐに分かる、美しい響きの名だった。その名に疑問は抱いていなかったし、彼女に似合いだとも思っていた。
 だが、今。
 あのメイド長から、根底を揺るがすような名を告げられて。
 歯車が外れ、また別の形へと、噛み合おうとしていた。
 妻と出会い、彼はずっとこう感じていた。途方もない大昔に出会っていたような気がすると、ずっと彼女を探していた気がすると、その微笑みを向けて欲しいと願っていた気がすると。
 そして本当は守りたかったのだと。
 見たこともないはずの、寂れた墓地の光景が目の前に広がる。
 俯いた小さな少女が振り返る。
 少女の顔と、妻の微笑みが重なっていく。
 見開いた彼の目から涙が零れた――ような気がした。
 けれど実際には、一粒の涙も零れていなかった。
 彼はもはや、泣き方すら忘れていた。

「君の名前は、本当にミシェルだったのか……?」

 彼の心を絡め取るのは二重の鎖であり、二重の罪であった。
 彼は感覚的に理解し、自覚をしていた。
 己の犯した途方もない過ちを。
 そして己が、到底救われるに値しない者であることを。

 ◇◇◇

 数日後の夜、視察を終えて帰宅した彼は、庭園の方へ足を伸ばした。
 薔薇園――というよりも花壇の前に、夜そのもののような黒髪の女が屈んでいた。彼女は彼の足音に気が付くと、スカートの土をさっと払う仕草をして立ち上がり、いつもと変わらぬ微笑を向けた。
「おかりなさいませ、旦那さま。……お庭にお越しになるのは珍しいですわね」
「ここへ来れば君がいるような気がしたからな」
「まあ。旦那さま、先日からおかしいですわ。そんなにわたくしに気があるというのですか? いけませんわ、わたくしには心に決めた方がいるのですから」
「馬鹿を言いたまえ。私にも心に決めた者がいる。そしてそれは君ではない」
 彼女は分かっていたと言わんばかりに、ふふ、と吐息で笑った。
「そうですわね。旦那さまは、本当にお好きな相手の前では『君がいる気がしたから来た』だなんて台詞は吐けませんものね」
「おい……それが雇い主に対する態度かね」
「うふふ」
 彼はため息をついてから、ちらりと花壇を見た。薔薇園は九年近く前に、彼の指示によって破壊されたのだ。それが花壇という形であっても、少しずつ甦ってきているのは、メイド長が手を入れ続けているからだった。そして彼ももう、花を殊更に嫌うような真似はしなかった。
「……薔薇園の件は、君にとってもすまないことをしたな」
 彼の唐突な謝罪に、メイド長はまるで幼い子供のようにきょとんとした。彼は視線を合わせないまま、呟きに近い声量で続けた。
「君も薔薇を大切にしていたのだろう? この前言っていたではないか、貴族の雇い主と共に花を眺めていたと。……思い返せば薔薇園の手入れを熱心にしていたのも君だったからな」
 彼女は少し間を置いて、壮年となった男のことを物珍しい目で見つめた。一体どういう風の吹き回し――と思いかけたが、考えてみれば、彼は自らの過ちをあの事件で痛いほど自覚したのだから、謝罪の一つや二つ言えるようになっていてもおかしな話ではなかった。
 それに、時の経過に鈍くなってしまったメイド長は忘れかけていたが、二人が出会った当初は、ヤコポも真っ直ぐさを残した青年だったのだ。それこそ胡散臭い女に職を与え、能力を買い、メイド長の立場を授けるくらいには。
 立場、抑圧、周囲との関係、気の休まらない日々、裏切り。それらが彼の人間性を歪めてしまった。一つ大きな事件を経て、彼は本当の彼らしさを少しだけ取り戻したのかもしれない。
 しかし皮肉なことに、それを知るべきであった女たちは二人ともいなくなったのだが。
「……わたくしに謝罪されることなど、何も。それにわたくしも、あの時、真実に気が付いておくべきだったのです。そうすれば旦那さまをお止めすることだって出来たのかもしれませんわ。薔薇園の崩壊も、きっと止められたはずです」
「一介のメイドに気づけという方が無理があろう。私が分かっているべきだったのだ、マリーアの画策に。……そして妻の想いを信じておくべきだった」
「わたくしが気づいておくべきだと申し上げたのは、そのことよりも――あなた様のお心でございます」
「私の、だと?」
「ええ。あなた様が、本当はお優しい方であることを、信じてさしあげるべきでした」
 彼は双眸をきつく細めて、微笑むメイド長を見据えた。まったく笑えない冗談を聞いたと言わんばかりの表情にもなっていた。
「私が優しい人間ならば、あのような真似はしまい。私は結局、友を殺し、妻を壊し、自分のために金を稼いだのだ」
「……そのお金は、本当にあなた様ご自身のためだったのですか?」
 彼は奥歯を噛み締め、彼女の翡翠の瞳から目を逸らした。まるで何もかもを見透かすような色合いをしているように感じられた。
「故郷のために、家族のために、友のために、愛する方のために欲したものだったのではありませんか?」
「違う」
 彼は唾棄するように吐き捨てた。
 確かに彼女の言うように、彼が金と権力を欲したのは、故郷のためでもあり、マリーアのためでもあり、妻のためだった。けれどそれがすべてではない。自分を高みに押し上げて、彼を裏切ろうとする様々な者から己を守るためでもあった。目的が徐々に入れ替わり見誤ったからこそ――力の使い道を間違えたのだ。
 見失っていなければ、最初から妻にもマリーアにも優しく出来た。保身なんてくだらないものを捨て去ることが出来た。
 メイド長は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「そう仰るのなら、そういうことにいたしますわ。……それにどうあろうとも、もう取り戻せないものばかりですものね」
 そうだ、その通りだ。今更、友と妻のためだったと言ったところで何になるというのだ。それで自分の行いが許されるわけでもない。仕出かしたことは何も変わらないのだから。
 彼は短いため息をついて、気を入れ替えた。
「……君に声を掛けたのは、一つ用事があってな」
「わたくしに? なんでございましょう?」
 彼は鋭く細めた眼差しを、ある場所へと向けた。
 それは満月に煌々と照らされる、長い、長い、塔の形をした廃墟だった。
「少し、付き合え」

 ◇◇◇

 ヤコポが屋敷を買い取った時には既に業者の手が入れられており、人の暮らせる空間として完成されていた。だが一つ、異様な存在感をもって佇む廃墟が存在した。
 彼は当初、その謎めいた廃墟の塔を撤去しようと考えていた。修復するにしたって使い道がない。であれば解体し、倉庫なり何なり役に立つものへと改築し土地を有効活用すべきだった。
 しかし彼はなぜか、その塔を壊すことが出来なかった。
 その理由は、今でも分かっていない。
 塔の入り口は、彼が第二広間と名付けた、未使用の広間から繋がっている。この広間も昔から妙な噂がたっていて、物音がするだの血が滴り落ちてくるだの、メイドたちが口々に騒いでいた。ずいぶん前にもマリーアから怪談話を聞いたことがある。女の怪談話に興味はない、くだらない、そう言った気がするが、実際に彼自身もこの広間から妙な感覚を受けていた。
 だがそれは、恐ろしいとか不気味とか、そういうものではなかった。
 息が詰まるような罪の意識と――
 途方もない悲しみだった。
 訳の分からない感情に振り回されるのが嫌で、ずっと、第二広間を利用しなかった。灯りも配置されていない室内は孤独そのもののように真っ暗で、まるで闇の底に叩き落されてしまったかのようだ。
 彼とメイド長は互いにオイルランプを手に、広間を進んだ。奥には閉ざされて久しい扉がある。そこには時代錯誤な鉄の扉も、奇妙な鍵穴を持つ錠前も存在しなかった。たった一つの鍵で開く、簡素な扉があるだけだ。
 マスターキーで開錠する彼の背を眺めながら、メイド長は「どうして」と首を傾げた。
「わたくしを連れていこうと思ったのですか?」
 お一人で行くのが怖いのですか――そんな風に笑ってみたかったが、彼女自身も、この場所にいるとなぜか茶化すような台詞が出てこない。
「君の存在を改めて疑問に思うようになってから、時折、その姿を目で追うことがあってな。君がぼんやりと眺める先は、大抵二つだった。……かつて薔薇園だったあの庭と、そして、廃墟の塔だ」
「…………」
「だから、この塔を上る時は、君も同行させた方が良いのだろうと思った。……それだけだ」
「そうですか」
 ドアの奥にもやはり深淵の闇が広がっている。オイルランプの灯りが描き出すのは、長い長いらせん階段だった。メイドの感情は既に失われて久しく、彼女は完全に永遠を彷徨う人形と化していたのだが、それでもらせん階段を見た瞬間凍りついた心の奥で何かが蠢いていた。
 ヤコポは階段の一段目に足を乗せて、何度か強く踏み鳴らした。鈍い軋みが響いたが、底が抜けてしまうようなことはなかった。それでも廃墟を、しかも夜に上るなど、馬鹿げた行為だと言って良いだろう。慎重に上り始めたが、いつ何が起きてもおかしくはなかった。
 ゆっくりと歩みを進めるヤコポの背を眺めながら、彼女は段々と息苦しさを覚えていた。その背が他の誰かに重なるような気がしてならなかった。彼女の手を引きながららせん階段を休みなく走り続ける背が、ほんの一瞬、彼女の意識を奪う――
「どうして、上ろうと思ったのですか?」
 その苦しさから目を逸らすかのように、彼女は問いを投げた。
「分からん」
 短い返答に、彼女は首を傾げた。彼がこのように理由のない行動に出るのは、珍しいことだった。
「ただ……、ずっと……、この塔には私に関する何かがあるような気がしてならなかった」
「……そうですか」
 彼女は微笑みを作り上げた。
「わたくしも、この塔には、わたくしに関する何かがあるような気がしてならないのです」

 塔を上るには長い時間を要した。光を取り込むために切り抜かれたむき出しの窓が、月明かりを彼らの前に広げている。罪人と囚人を誘う光の道のように。
 何周らせんを巡ったか思い出せないくらいになって、ようやく終わりが見えかけてくる。
 だが、最後の扉に辿りつく前に、二人の足は止まった。
「…………」
 彼らの先の足場は崩壊していた。
「お戻りになられますか」
 メイドが言う。無理に進もうとすれば足を踏み外して、地獄の底へと真っ逆さまに落ちてしまうだろう。さすがに彼もこの状況を目にすれば、仕方ないと言って諦めるはずだ。
 そう思っていた――のだが。
 彼は無言でその一歩を踏み出した。壁を頼りにして、まだかろうじて残された箇所を足場にしながら、今まで以上に慎重に、ゆっくりと、進んでいく。男一人の体重に耐えかねた石の欠片が、乾いた音をたてて闇一色の底へと落ちていく。それでも彼は臆することなく進んだ。
 彼女はその背をじっと見つめていた。はらはらと心配するような眼差しではなく、何も感じていないような冷たい瞳だ。
 ここで彼が死ぬというのならば、それもまた館が導く運命なのだろう。
 彼女はそんな風にしか思っていなかった。目の前の男が生きようが死のうが、彼女は彼女の待ち人を待ち続けるだけなのだから、何も変わりはしないのだ。
 だが、彼は崩壊した足場を超えて、向こう岸へと辿り着いていた。あの男の命が潰えるのは、まだ先の話なのだろう。
 オイルランプの灯りと共に、彼が振り返る。
「君はそこで待っていても構わん」
「……いいえ、わたくしも参りましょう」
 彼女はそう言って、優雅にスカートをたくし上げた。そして彼が進んだ道筋を辿るように、闇の穴を乗り越えていく。彼女が時間をかけて対岸まで辿りつくと、彼は皮肉げに口角を上げた。
「幽霊のように浮かび上がってみせるかと思ったのだがな。君も一応は、生身の女らしい」
 彼女も微かに笑ってみせた。
 そして二人は再び階段を上り、塔の最上階に到着した。そこには冷たい一室があり、扉は既に朽ち果てていた。高いところに唯一存在する窓だけが外界との繋がりであり、そこからは光の梯子が下ろされている。
 二人は部屋の中心まで進んだ。
 秋の夜とはいえ、それ以上の冷気が辺りを包み込んでいた。ため息は決して白い煙とならなかったが、それでも肉体を、いや、魂を凍りつかせるような残酷な空気が支配している。
 彼はじっと、窓を見上げて佇んでいた。
 やがてそこから壁際へと移動すると、彼女にとっては何もないように見える場所で膝をついた。男の指先が壁の凹凸を辿り、そして握り締めた拳が力なく床に落とされる。
 項垂れる男の姿は、金と権力をその手にした名のある実業家のものとは思えなかった。広い背中であるはずなのに、とても頼りなく、今にも消えてしまいそうに見える。
「……ここに、あなた様に関する何かは見つかりましたか」
 メイドの声は空虚な空気によく馴染んでいた。
「ああ」
 彼の声は震えていた。そのたった短い言葉に、様々な感情が含まれているように思えてならなかった。
 彼女は一瞬、彼が泣いているのだと思った。だがうっすらと見えた横顔は、ただただ蒼白な色合いをしているだけで、涙は一粒たりとも流していない。
 彼女は彼に近づいて、気づけば、その背に触れていた。
「もしも――」そして傍観者であることを誓った彼女にしては、ずいぶんと異質な発言をしようとしていた。

「この場で命を絶ちたいとお考えならば、わたくしが、あなた様のお命を奪いましょうか」

 壮年の男がはっと振り返る。だが、彼の瞳には怒りも驚愕も含まれていなかった。
「なぜ、そんなことを言うのだ」
「分かりません。けれど今の光景を見て、なぜか、そう言ってしまったのです。……あなた様がそれを望んでいらっしゃるような気がして」
 彼女がゆっくりと膝を折る。
 二人の視線は同じ高さとなった。
 彼はわずかに困惑を見せたが、それでも視線を逸らそうとはしなかった。
「確かに」彼の声は、ほとんどが吐息だった。「それを望んだことがあるような気がする。途方もない遙か昔にな……」
「…………」
「だが、それでも私は塔を下りたのだ。何もかもを犠牲にしてまで得たものから、自分が逃げ出すわけにはいかんだろう……」
「その先にもう幸福がないと分かっていてもですか?」
「分かっているからだ。……せめて責任を取らねばなるまい。それは今も同じだ」
「そう……、ではわたくしは、あなた様の行く末を見守りましょう」
 ――でも、あなたはとても哀れな方ですわ。
 彼女はその言葉を飲み込んで、微笑んでみせた。正気などとうに失った女ではあったが、優秀な使用人として、何を言うべきで何を飲み込むべきかきちんと理解していた。
 だが哀れといえば、彼女もまたそうであった。
 彼女だって本当は、この物見の塔の最上階で、愛しい人と共に死にたかったのだから。
 それはもう物語という形で、彼女以外の記憶として改編されてしまったのだが。

 ◇◇◇

 どれくらい経ったのか――満月の位置がずいぶんと傾いた頃、二人はようやく塔の最上階を後にした。階段を下り始めると、再び、あの足場の欠けた地点に差し掛かる。行きと同じように先にヤコポが進み、渡り終えた後に、メイド長が続こうとした。
 その時だった。
 不意に彼が、彼女に向けて手を差し伸べた。
「…………」
 彼女は意図が分からず首を傾げてしまった。いや、状況を見れば分かる。この足場を渡るために手伝おうとしてくれているのだろう。だが、難なく渡った様子を先ほど見せたはずだ。
 何より館の主が、ただのメイドにそこまでする必要はない。
 しかし彼女は、月明かりに背を押されるようにして、その手を取っていた。
 それは無自覚に近かった。
 大切な人を失った者同士の孤独な指先が触れ合った瞬間――
 彼は彼女に、年相応の、太陽のような笑顔を浮かべる女の幻影を見た。
 そして彼女は彼に、若々しい、皮肉屋で優しい青年の幻影を見た。
 忘れ去られたジゼルと奴隷の青年、二人のかつての魂の残滓が、
 ほんの、ほんの一瞬、甦る――

『ねえミシェル。わたし、本当は、あなたと手を繋いだまま物見の塔を下りたかったのよ』
『なあモルガーナ。僕は、本当は、君の手を取ることが許された日々に戻りたかったんだ』

 ……メイドが崩れた足場を渡りきった時には、彼らのかつての気配も、跡形もなく消え去っていた。そこにいるのは何があっても笑い続けるメイドと、孤独な実業家の男だけだった。
 だが二人の間には、相通じる想いが残されていた。それは暖かいものではなく、恐らくは侘しさや虚しさといったものに近かった。
 あるいは同類の傷の舐め合いにも近いのかもしれない。
 それもこれも、また時が経てば消えてしまうのだろう。彼と彼女のほんの一瞬の繋がりは、秋の夜空以上に儚いものだった。
 彼は彼女を導きながら、
 彼女は彼に導かれながら、
 ゆっくりとらせんを下り始めた。

「……君に関する何かは、見つかったかね」
「ええ……先ほど見つかったような気がします。けれどせっかく見つけたものも、きっと、すぐに忘れてしまうのでしょう」
「ずいぶん忘れっぽい女だな」
「いつもそうなのです。もうこれ以上のことは、わたくし、覚えていられないのですわ」
「まあ……、その方が良いのかもしれん」
「あなた様もお忘れになればよろしいのですよ」
「それは出来ん」
「難儀な方ですわ」
「その言葉をそのまま君に返してやる」
「まあ……、うふふ」

「ねえ、旦那さま」
「なんだね」
「わたくし、きっと、この感情も忘れてしまうでしょうから……その前にお伝えしておこうと思います」
「……ああ……?」
「わたくし最初は、あなた様のことを嫌っていたのです」
「ふん、まあ、そうだろうな」
「けれど今は、そうでもありませんわ」
「…………そうか」
「ええ、そうです」
「私もな、最初は君のことを不気味だと思っていたし、視野にも入れていなかった」
「ええ、まあ、そうでしょう」
「だが今は、そうでもない」
「……そうですか……」
「ああ、そうだ」


 Fin.