『さようなら、ヤコポ。あなたの魂と、もう巡り合うこともないでしょう』
『さようならだ、モルガーナ……』

 あれですべてが終わったと彼女は思っていた。
 この手が呪いを解き放ちさえすれば、彼らの魂はそれぞれ輪廻の輪に戻るのだと。すべては無に戻るのだと。何もかもが消え、あとはただ自然の流れに身を任すだけになるのだと。
 そしてそれは、彼女の手を導いた善なる青年も思っていた。
 こうして呪われた館は消滅し、すべての魂を救うことが出来た――と。
 しかし青年は知らなかった。その男の想いの重量に。
 そして彼女も知らなかった。その男の果てしない自責の念に。

 彼は、さようならと見送ることは出来ても――決して旅立つことはなかった。
 自らの魂を許すことなど出来なかったのだから。
 許せるわけがないのだから。


 あなたと私の故郷


 気づいた時には、彼女はそこにいた。
 黄金の小麦が風に揺られていて、まるで金色に輝く海のようだった。空は青く澄み渡っており、頬を撫でつける風は彼女が困惑してしまうくらいに暖かい。
 あまりにも優しい景色だった。
 彼女はその光景を知らない。見たこともない。行ったこともない。だというのになぜか、最初に感じたのは「懐かしい」という想いだった。
 恐ろしさすら覚えるほど、美しい世界だ。彼女は導かれるようにして一歩進んでいた。柔らかい草を踏む音が、徐々にはっきりとしたものへと変化していく。どうやら彼女の魂そのものも、形を作り始めているようだった。
 黄金の海が描き出すのは、彼女の生前の姿だった。
 彼女は違和感に気づいて、本来あるはずのない左手を持ち上げた。その手には一切の傷がなかった。怪訝に思いながら顔にも触れた。生前あれほど自分を苦しめ続けた醜い凹凸や爛れや痣の感触も、やはり同様に感じられない。

(……どういうこと……?)

 彼女は混乱した。一体ここがどこなのか、今がいつなのか、なぜ自分がこの姿なのか、どうして自分がここにいるのか――さっぱり分からない。
 しかし困惑し続けながらも、彼女は進んだ。いや、進んでしまったという方が正しいのかもしれない。優しい世界はいつも彼女を傷つけてきた。幸福な思い出こそ何よりも恐ろしい刃となる。それを生前嫌というほど突きつけられたのだから、彼女はいつだって“優しいもの”を排除してきたのだ。だからこそ、あの呪われた館でも優しい気配が漂う寝室を閉ざし、鍵を風景画の中に捨てた。
 それなのに、背を押されるようにして優しい世界を歩き続けている。
 進まなければいけないような気がしていた。
 やがて小麦の海の向こう側に、一つの影を見つけた。それを見て、彼女はついに足を止めた。そして息を呑み、この世界が何であるのかを察した。


 これは彼の世界だ。


 私が呪いの世界を作り上げたように。
 彼もまた幻想の世界を作り上げたのだ。
 その事実に気づいた瞬間、数々の記憶が、風景が、彼女の目の前を流れていった。非現実な光景だとは思わなかった。こうして他者の記憶が流れ込んでくるのは、あの館でも起きていたことだ。生者と死者では見えるものも異なるのだから。肉体に依存する生者と違い、死者を構成するのは想いや記憶ばかりだ。
 ただ、それを経験したのはいつもミシェルの方であって、彼女ではなかった。こうして記憶と感情が生々しく彼女の魂まで届くのは――初めてのことだった。あるいはその記憶は彼女に深く関係しているからこそ、有無を言わさぬ力を伴って、強く流れ込んできたのかもしれない。
 それは子供の頃の記憶だった。
 三年間、彼女に薬を塗り続けた青年の姿が甦る。
 憎まれ口を叩き、皮肉を言い、時には怒り――それでも欠かさずに彼は薬を塗った。どんなに彼女が文句を呟いても、それでどんなに彼が苛立ちを見せても、最後には必ず薬を塗る。彼女はずっと彼のことを「変な人」だと思っていた。どうしてそこまでして面倒を見てくれるのか理解出来なかった。
 他の男は彼女に近寄ろうとしない。理由なんて簡単で、気味が悪いからだ。顔に触れるなんて、誰かに頼まれても嫌に違いない。
 でも、彼だけは、別だった。
 いつだったか、彼は、いつも墓地に向かう彼女に向けて文句を言った。雨が降ろうとも雪が降ろうとも、何があろうとも欠かさない墓参りに対して辟易した顔を見せた。しかしそれは、考えてみれば彼も同じなのだ。
 雨が降ろうとも、雪が降ろうとも。
 風が強い日でも、彼が怪我をしている時でも。
 欠かさず、彼女のいる墓地に来た。
 ……彼女は朝焼けの光景も思い出していた。彼に背負われて、いつもとは異なる帰路についたあの日。貧民街の路地は饐えた臭いに満ちていて、どこにも清浄な空気は存在しなかった。だというのに、彼の肩越しに見た朝焼けはとても澄んだ色合いをしていた。

『こんな掃き溜めみたいな場所でも、陽射しが射すもんなんだな。まあ、当たり前のことかもしれないが……。なんでだろうな、今日はやたらと眩しく感じる』

 その時彼女は何も返事をしなかったが……同じようなことを思っていた。
 彼女はいつも俯いてばかりで、空をきちんとを見上げることもなくなっていた。自分一人では顔を上げられなかった。彼の言葉がなければ……朝焼けを美しいと思うことすらなかった。
 あの日以来、恐ろしい領主が夢に出てきても、きつく目を瞑ってやり過ごすことが出来るようになった。領主の顔を、声を、記憶から消し去ることが出来るようになった。
 彼女の傷は確かに癒え始めていた。
 彼女は、たくさんのものを彼から貰った。
 普通の幸せ。人としての幸福。ただの少女として許される日々。
 掛け替えのない――優しい生活。

(ああ…………)

 けれど――
 その記憶は、余計に、彼女を辛くさせた。
 “奴隷の青年”との思い出が優しければ優しいほど……何もかもが崩れていく。

(だってあの人が私を殺したのよ!)

 そう……あの人は……かつて私に優しく触れた手で……私を殺したのだ。
 それを思えば、すべての思い出が汚れていった。優しい日々が粉々に壊れていった。何もかもが無茶苦茶になっていく。彼女の心は大いに乱された。その胸を満たすのはやはり憎しみであり怒りであった。それは彼女にしては珍しく、制御すら難しいくらいの激情に近かった。
 あの時は、隣にミシェルがいた。彼が手を繋いでいてくれた。だから冷静でいられたのだ。彼女自身だって、一人では行けないと口にしたくらいなのだから。
 でも、今は、一人きりだ。
 こんな世界から、もう出てしまおう。あんな人にもう一度会うなんて願い下げだ。
 彼女は真っ先にそう思って、踵を返しかけた。
 しかし――気づいてしまったのだ。小麦の畑に佇むその影の有様に。


 それはぼろぼろに崩れていた。


「…………」

 彼女は黙って、その影を見つめた。それはとても不安定で、自らの形すら保てていなかった。彼女は魂の影がこのような状態に陥るのを、今まで何度も見てきた。たとえばそう、ミシェルの魂がばらばらに砕けながらも、ジゼルの声に導かれて館に戻ってきた時。あの時も似たような状態だった。ミシェルの影はとても不安定で、見るも無残な状態で、思考もままならない様子でジゼルに導かれ続けた。
 ミシェルの魂が粉々に砕けたのには、納得のいく理由がある。彼は激しい迫害を受けたのだ。自らの消滅を望み、死以上のものを求めるくらい、凄絶な人生と悲惨な末路だった。
 けれど……。

(どうしてあなたが、そうなるのよ……)

 彼女は納得のいかない思いを抱えた。理由も分からなかった。
 彼女にとって彼は加害者で、そして、外道だった。たとえ大昔に優しさを見せていても、それは変わらないことなのだ。……それなのにどうしてあんなみっともない姿になってしまっているのか。
 あのままで居続けたら、彼の魂は完全に消滅するだろう。擦り切れて、摩耗して、世の理に戻ることもなく消えてしまうのだ。

(消えてしまえばいい)

 彼女は唇を噛み締めながら、心の中で呟いた。そうだ、勝手に消滅すればいいのだ。そうすればこんな苦しい思いを抱えずに済むし、あの人の姿を見ずに済むし、何もかも消えてすっきりする。
 そう思って、何度も何度も踵を返そうとしているのに――なぜだか彼女の足はちっとも動かなかった。それどころか胸の奥に奇妙な感情すら湧き上がる。
 それは、彼女はきちんと自覚出来ていなかったが、ある種の憐みだった。
 彼女が魔女であった頃ならば、そんな感情は決して抱かなかっただろう。むしろぼろぼろに朽ち果てていく彼の魂を見て、心底愉快に嗤ったのではないか。お前にはその末路がお似合いだと骨の指先を突きつけて、嘲笑すらしたのだろう。
 けれど、今の彼女はもう、魔女ではなかった。
 それだけではない。
 彼女はミシェルとジゼルから、無償の愛を貰った。
 そして――自分から切り離していた善意たる白い髪の娘の魂も……
 今や、彼女の心に、少しだけ戻りつつあった。

「…………」

 彼女は内なる声を聞いたような気がした。もはや、彼を救えるのはあなたしかいないのだと。彼女は眉間に皺を刻んだ。なぜ、あの人に傷つけられたこの私が、よりによってあの人を救わなければならないのか?
 内なる声は再び告げる。あなたがたくさん傷つけたミシェルは、あなたを恨むどころか、必死になって救ったでしょう?
 あなたが何百年もの間自由を奪い続けたジゼルは、あなたを恨むどころか、ミシェルと共にあなたを救ったでしょう?

「…………」

 それを聞いて彼女は……もう一歩……踏み出していた。
 小麦が大きく揺らいで、幻想がより一層輝きを増していく。彼女は当初、「こんな幻に現実逃避するなんて」と苛立ちを覚えた。しかし徐々に、それが違うことであると気づき始めた。
 彼の感情と、記憶が、より鮮やかな形となって流れ始める。
 この景色は――彼が間違いさえ犯さなければ手に入れられた光景だ。
 そして――彼女のために見つけ出したかった光景だ。
 つまりこれは逃避ではなく――
 後悔であり懺悔なのだ。
 彼はあれから何度も何度も自分の行いを責め、悔い、彼女に見せたかった幻に包まれて、自分では出来なかったことを自分自身に突きつけて……そして魂を滅ぼしていたのだ。
 それは自責であり、自罰であった。
 幻想的な故郷の光景は、きっと、モルガーナに対してのみではなく、彼女の半身であった白い髪の娘に対しての懺悔も含んでいた。白い髪の娘は彼の故郷を見てみたいと手紙に書いたが、それが叶うことはなかったのだ。
 彼は二度も、何よりも守らなければいけないものを、自らの手で破壊した。
 二度も彼女を壊した。
 だから……彼は、自分自身を許すことなど決して出来ないのだ。
 たとえ、彼女から解放されたとしても。

(なんて……愚かな人なのだろう……)

 本当に愚かで馬鹿らしい。ここまでどうしようもない人は見たことがない。けれど彼がこのようなことをしているのは、彼女自身が「償い」を跳ね除けて、もうあなたにすることは何もないと言い放ったからだ。そのことにも、彼女は薄々気づいていた。
 それに……二度目の人生に関しては……一方的に彼が悪いわけではなかった。
 彼女が願った、破滅の呪いがあった。
 言ってしまえば――彼女が壊させた部分もあるのだ。
 しかし彼は責任を他人に押し付けることが出来ない人間だった。いつだって、最後は「すべての責任は自分にある」としたのだ。あの銑鉄の時代でも、魔女の時代でも。そしてそれは、ミシェルが変えたもう一つの歴史でもそうだった。
 彼は言った。何よりの首謀者はこの私だ。そしてこうも告げた。そいつらの、より良い次の世とやらのためにもな……。
 あの時点で、最初から、彼は一人だけ許される気などなかった。

(でも、だからといって、どうすれば良かったというの? 彼の残虐な行いは、何も変わらないわ。それでもあの時笑ってあげれば良かったというの? ……私はこんなにも彼を憎んでいるというのに? 傷つけられたのは私だというのに?)

 ……彼女は答えを出せないまま、その虚ろな影に近づいていた。
 距離が縮まれば縮まるほど、逃げ出したい気持ちになった。何を言えば良いのか、何をすれば良いのか、まったく思いつかない。考えなしに近づいてしまっただけで、いまだ彼女の中で何の結論も出ていない。
 影は彼女の姿に気づいて、顔を上げた。彼女は少し緊張した。
 影はもはや人の姿を保っておらず、目もあてられない姿だった。
 それでも、影が優しく笑ったことは、なぜだか……分かってしまった。きっと、影の振る舞いのすべては、彼女にしてあげたかったものだけで構成されているのだろう。
 どうやら影は、彼女を幻想の中の光景だと思っているようだった。
 それなら、と彼女は思った。
 それならいっそのこと、この幻想に付き合ってしまおう。そうした方が向き合いやすいし、考える時間だって出来る……。
 いや、本当は。
 彼女自身も、この幻想を欲していたのかもしれない。
 何も不幸な事件は起きず、「私たちの故郷」を彼が見つけ出してくれた――優しい未来を。それが偽りだと分かっていながらも、浸りたかったのだろう。そうすれば彼女だって……微笑むことが出来るのだから。

「それで……、今日はどうするんですか?」

 ◇◇◇

 最初は幻想に付き合ってやっているつもりだったが、次第に彼女も夢の世界に引き込まれていた。彼は領主になどならず、自分も魔女になどならず、素朴な景色が似合う――まだ見ぬ故郷へと辿り着いた世界。
 そこで待っている生活は、とても穏やかで幸福だった。彼女は幻想を楽しみ始めていた。なるべく何も考えないようにして、受け入れていた。それが出来たのは、影――彼がもはや正常な状態ではなかったからだ。
 自分が、本当の十六歳の少女に戻ったような気持ちだった。あの時代のまま、普通に育った娘。それが出来ればどれほど良かっただろう。
 彼に歌うことを求められてから、二人は大きな樹木の傍に向かった。その時、彼の手に楽器はなかった。それでも彼は『借りてきた』と言ったので、彼女はそれに合わせることにした。彼の見ている世界では、この土地には同郷の者が暮らしているのだ。
 二人は木の傍に腰を下ろして、少しだけ歌った。メロディになったのは、彼女の声だけだった。彼の声はかつてのミシェルがそうであったように、きちんとした音とはならない。……それでも彼女には、彼が何を言い、どういう顔をしているのか分かっていた。
 幻想の世界に浸っていると、彼女の記憶や感情も、あの時のものへと引き戻されていく。人としての喜びを知った三年間。幸福だった日々。あの日々が続いたまま――十六歳になった自分。
 彼女は「笑えない」と告げた相手に向けて、たくさん微笑んでいた。その多くは、無自覚のものもあっただろう。
 そのうち彼女は、かつて口に出来なかった、自分の生い立ちについても話すようになっていた。聖女と呼ばれ続けていたこと。奇跡の血があること。村でも崇められていたこと……。
 本当はずっと、言いたかったのかもしれない。打ち明けたかったのかもしれない。自分のことを――知って欲しかったのかもしれない。

『君は普通の娘だろ』

 彼はそう告げた。不協和音だらけの音は、彼女以外のものが聞けばおぞましいものでしかない。しかし彼女にとっては、かつての――彼女が奴隷の青年と呼んでいた――あの青年のものだった。少し呆れ混じりの、それでも優しさを失わないあの声。
 彼女は微笑んだ。そうね、あなたが何度も言うから、そうなのかもしれないと思い始めました。……その台詞を漏らしながら、もしもあのような道筋を辿らなければ、私の心と顔を癒やしたのは目の前のこの人だったのだろうと感じていた。
 それはもちろん、果たせなかった道筋だったし――
 結果として起きたのは、真逆のことだったのだが。
 ただ、そんなことを考えられるくらいには、彼女の心は少し和らいでいた。
 それから彼女は、“故郷”にも思いをはせた。彼女の生まれ故郷はあの小さな村だ。閉鎖的で、娯楽のない、何もない村。だがその村のことではなく、もっと遡った――血筋に関する――つまり本当の父親の故郷のことを考えたのだ。

『会いたいのか?』

 父に関する話をしていると、ふと、影が問いかけてくる。どうかしら。彼女は真剣に悩んだ。本当は真剣に悩むものではないというのに。もうすべては終わっているのだから、家族の話などする必要もなかったのだが――彼女の心の大部分は、既に過去へと引き戻されていた。
 彼女が父に対する悲しみを零していると、ふと、影から柔らかさが消えた。優しい幻想的な世界が一瞬だけ歪み、血の臭いがかすかに漂う。彼の怒りが世界に反映されようとしていた。彼は彼女の父親を見つけだし、力による制裁を望もうとしたのだ。

「暴力はやめてください!」

 彼女は咄嗟に叫んでいた。
 そして彼女らしからぬ様子で、必死に止めていた。たとえそれが私のためだとしても、もう暴力はやめてと。
 いつだって彼は、手にした力によって破滅の道に進んだのだ。彼は力で屈服させる手段しか分からず、それで成功を収めてしまったが故に、余計に他の方法を取れなかった。そして暴力以外の解決方法が分からなくなり、最後は自分と他人を信じることが出来なくなる。
 本当は臆病で繊細な人なのに。
 人を殺せるほどの力を持ってしまうから。

「その手で、もう誰かを傷つけないで」

 だってあなたは、誰かを傷つければ傷つけるほど、自分がぼろぼろに傷ついていくのよ。
 いい加減、そのことに、気づいてよ……。
 ……影は長いこと沈黙し、彼女の姿を見つめていた。幻想の世界から、ゆっくりと血と暴力の気配が消えていく。影は再び青年の気配を漂わせ、分かったと、頷いた。
 彼女はほっとした。
 彼女はすっかり、過去の彼女になっていた。

 ◇◇◇

 そして二人は、また少し、他愛のない話を続けることが出来た。夏至祭の話もした。あの時のことを思うと、懐かしさで胸が一杯になる。あの時は全員揃っていた。彼も、彼の親友のマリーアも、彼の仲間であるグラシアンも、いつも場を明るくしてくれるジェレンも……。
 彼女は祭りの雰囲気が苦手で、それは今も変わらないのだが、過ぎてみればあの思い出は悪いものではなかった。あれは彼女の――いいや、彼女たちの貴重な青春の一幕だった。
 女子三人が手を繋いでくるくると踊り――
 その後ろでリュートを奏でる彼と、リズムを作り上げる彼の友人がいた。
 輝かしい一日だった。
 そして思い出せば、あの時代から彼はずっと上を目指していた。広い世界を夢見て、それを彼女に見せたがっていた。それは幻想の世界となった今でも変わらないようで、彼は今でも夢を燻らせているようだった。彼女は呆れて、強い口調で「もう諦めて、私に合わせてください」と言った。
 彼が今でも馬鹿げた夢を見るのならば、私はその夢を笑ってあげよう。
 彼が今でも愚かな夢を見るのならば、私が引き止めてあげよう。
 そうすればもう二度と……。

「……は?」

 その時、彼が妙なことを言った。『なら、新しい夢を見つける』
 彼女は呆れて開いた口が塞がらなかった。少し怒ったかもしれない。あなたの愚かな夢があなた自身を滅ぼしているのよ――そう口に出掛かったくらいに。
 しかし彼は、彼女の怒りを受け取らず、新しい夢を告げた。

『君を振り向かせる』

 彼女は茫然とした。
 まさか、この男の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
 いくらこれが、彼が彼女に見せたかった幻想の世界だとはいえ……。
 彼女は複雑な想いを抱えた。間違っても、嬉しいとは思わなかった。確かに彼女の心は過去に引き戻されていたが、それでもすべてが元通りになったわけではない。
 あなたが私を殺したのよ。
 そのあなたに私が振り向くなんて、あり得るはずがないわ。
 その思いが心の奥底で燻っていたが、口には出さなかった。苛立ちをぶつけるよりも、愚かな夢に浸り続ける方を選んだのだ。その方が、彼女にとっても幸福だったから。
 彼はそれからも、驚くほど素直に彼女に好意を向けた。名前を呼んで欲しいとすら告げた。彼女は眉間に皺を刻んで、あなたの名前なんて呼びませんよと言った。
 そんな風にかたくなに拒絶していると、影は少し落ち込んだ様子を見せた。
 彼女は困りながら、場の空気に耐えられなくなって話題を探した。他愛のない話を続けようとした。けれど影は簡単な相槌を打つだけで、世間話に乗ってこようとしない。
 彼女が困惑しきってため息をついた時――影は彼女に願った。

『名前を』

 それを聞いて、彼女はやっぱり苛立ってしまった。そんなくだらないことに拘って、と。
 けれど。
 くだらないことなんかではなかったのだ。
 その願いは――何よりも痛々しく切実なものだった。

『忘れてほしくない』

 その時、彼女は息を呑んだ。

『もう、忘れてほしくないんだ』

 影の心が罅割れていく。

『僕の声も』

 不安定に、ぼろぼろと、崩れていく。

『僕の顔も』

 ただただ切実に、願いを口にし続ける。

『僕の心も』

 誰にも縋れなかった男が、必死に懇願している。

『僕が君に話したことも』

 それは彼女が忘れ去ってしまった、彼のすべて。

『僕がどういう人間だったかも』

 記憶の奥底に封じ込めてしまったものたち。

『あの日々があったことも』

 優しい思い出が辛すぎて、消し去った。

『頼む』

 名前も顔も思い出も――彼女が消し去った。

『どうか』

 だから……取り違える羽目にもなったのだ。

 彼女は、心が凍りついたような思いだった。ただひたすら懇願する影を見つめて、どうすればいいのか、分からなくなってしまった。ただ、もう、そんな願いを口に出された以上、何も起こらなかった幻想の世界を続けることは――出来ない。

「どうして……、それを……、今言ってしまうのよ……」

 彼女は呻いた。

「せっかく、私も……」

 ――幻想の世界を受け入れていたというのに。
 影は何も言わない。ただじっと、彼女の答える言葉を待っている。彼女は長い思案の末に、一歩、影へと距離を詰めた。手を伸ばせば簡単に触れられる距離。けれど決して、彼女から触れることはない。
 胸の奥から、妙な感情が競り上がる。叫びだしたいような、泣きだしたいような、子供のように喚きたいような……。それをぐっと飲み込みながら、彼女は目の前の影を見つめた。

「もし……それが出来ていれば……、どこかで何かが変わっていたの?」

「間違えずに済んだの?」

「私があなたを探していれば……あなたを変えてしまわずに済んだというの?」

 様々な後悔が、彼女の目の前を過ぎっていった。
 彼らと離ればなれになって、一人で小屋で暮らし始めた時。誰かに街の様子を聞いていれば、領主が変わったことだって気づいただろう。一度だけ小屋に訪れた兵士は、もしかしたら彼の出した使いだったのかもしれない。そもそも一緒に暮らしていた時に自分の生い立ちを明かしていれば――奇跡の血のことを言っていれば――湖畔の魔女が自分であると、彼も分かったはずだ。
 自分から動いていれば――彼が悪に堕ちることだって、なかったのかもしれない。
 彼を止めることが出来たのは――もしかしたら、私だけだったのかもしれない。

(私……どうしてこんなことを考えているの。悪いのはすべて……この人じゃない)

 どうすればいいのか分からない。
 あれからずっとそうだった。
 真実を知ってから――彼女は新たな苦しみを覚えていた。
 目を逸らすことしか出来なかった。

(ああ、だから……その所為で……)

 世の流れへと、いまだ戻れていないのか……。
 私は確かに天使によって救われて、魔女ではなくなったけれど……
 少女としての心は、血を流したままなのだ。

『君に触れたい』

 影の懇願は尚も続いた。その声の切なさに、彼女までも苦しくなる。その所為かいつもなら嫌だと突っぱねたはずなのに、彼女はこう言っていた――好きにすればいいと。
 影は恐る恐る、彼女に手を伸ばした。二人がいる世界は何も起きなかった幻想のはずなのだから、そんな態度を取るのは間違いだというのに。もはや二人に漂うのはただの幻ではなく、冷たく残酷な現実も含まれていた。
 愛していた少女を残虐な方法で殺してしまった現実。
 心の拠り所としていた青年に残虐な方法で殺されてしまった現実。
 お互いに向け合っていた感情は、相手を大切に想うという、ほとんど同質のものだったというのに。
 引き起こされたのは、愛とは程遠い、禍々しい事件。
 彼は恐れている。この手がもう一度彼女を破壊してしまうことを。そして怯えている。壊すことしか出来なかった手で、誰かを優しく抱き締められるのかを。
 彼は彼女に触れる前に、『許可なく触れたりしない』と告げたが――それはただの言い訳だったのだろう。本当のところは、すべて怯えに集約されるのだ。
 この血腥い手が、彼女に触れても良いものなのか。彼女を壊さないのか。穢さないのか。そもそも――そんな資格があるのか。
 それでも……彼は優しく彼女に触れた。
 ずっと、ずっと、長い間、そうしたかったように。
 彼の腕には様々な感情が含まれていた。彼女に向ける愛しさ、後悔、そして何よりも大きなものが――贖罪。

(――この人は、)

 直接触れてしまうと、彼の気持ちが流れ込んできてしまう。

(私があの館に閉じ込めていた時も、ずっと、こうしたかったのね……)

 彼女はふと、呪われた館での出来事を思い出していた。自分が魔女として悪に染まりきっていた、気の遠くなるほどの長い時間。彼を閉じ込めたのは最後で、最初は人の形すら保てていなかった。ようやく人影になっても、身動きも取れず言葉も出せず、ただ彼女に向けて何かを訴え叫ぶのみだった。

(あの時の叫びは……私に対する恨みだと思っていた)

 でも――違ったのだ。
 彼はただひたすら、彼女に償いたかった。
 だがその方法すら分からなかった。

「大の男が震えて、みっともないわ……」

 影は彼女を抱き締めて震えていた。それだけではなく、嗚咽を漏らして泣いていたのだ。……彼の涙を見たのは初めてのことだ。生前の姿すら保てていない影に対して、正しく「見た」と言うには語弊があるが――それでもそれが泣き顔であると、涙であると、感覚的に伝わってくる。

「あなたって気が強いのか小心なのか分からない人ね……」

 全身の力が抜けていく。強張っていたものが緩やかになり、何か巨大なわだかまりが……憑き物が落ちていくような感覚を彼女は覚えていた。

「でも、私もそうなのかもしれないわね……。誰もいなくならないと本当のことすら言えない。幻を頼らないと向き合うことも出来ない。弱音を吐くことも出来ない……」

 ……もしかしたら。
 認めたくはないけれど……私とこの人は似た者同士だったのかもしれない。
 もう忘れていたくらいのとてつもない大昔に、彼は告げた。直接触れ合っているとお互いに素直になれると。
 それは本当にその通りだった。
 彼女は口を開いた。そして、想いの欠片を素直に零し始めた。それは、彼女の本当の心から、痛みを伴いながら吐き出される生身の感情だった。
 彼女は多くを彼に語り聞かせた。
 どうしてもあなたのことは憎いのだと。
 あなたが私に幸福と絶望を与えたのだと。
 どうしたらいいのか分からないのだと。
 けれど、悔やんでもいるのだと。
 怒りの指先を間違えたことを。
 ……彼が彼女に抱くのは果てしない後悔だ。
 だがそれは彼だけが抱いているものではなかった。
 お互いの心や想いが溶け合っていくと――
 何が彼女の傷たらしめているのかも明らかとなっていく。
 彼は彼女を傷つけた。
 しかし彼女も彼を傷つけた。
 彼が行った過ち以上の他人の罪まで彼に被せて、罵倒し、呪いの言葉を吐き、お前が情を持つのは笑い話だと嘲ったのだ。あの遊戯室に閉じ込めて何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 ――本当は自分こそが彼の情を知っていたはずなのに!

 彼女はあの瞬間のことも思い出していた。今の――すべての真相が分かってしまったただの魂たる彼女ならば――あの時の光景もはっきりと理解出来た。それはミシェルに指摘された以上に、鮮明なものとなって、彼女に降りかかってくる。
 私は……
 三年もの間、雨が降ろうとも雪が降ろうとも、欠かさず私の面倒を見た人に……
 あなたが世界で一番憎いと、全ての元凶だと、吐き捨てたのね……。
 あの時、私は、正気ではなかった。
 でも、彼もまた、正気を失いかけていたのだ。
 最後の一押しが……私の言葉だった。


「あなたを追い詰めた最後の刃は、私の言葉だったのね……」

 ◇◇◇

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 どうしてお互いに傷つけあってしまったのだろう。

 一体いつなら取り返しがついたのだろう。

 ◇◇◇

 彼はそれからも、彼女を放そうとしなかった。償いを望み、想いを告げた。そして彼女にみっともなく縋った。それは生前の彼であれば、あるいは死後であれしがらみに囚われていた彼であれば、絶対に出来ない行為だった。死を迎えて、ぼろぼろになって、自分を破壊するほどの後悔を繰り返して……ようやく……素直に弱さを曝け出したのだ。
 ようやく……彼女に涙を見せることが出来たのだ。
 けれどそれは本当に今更なことで、何もかもが終わってしまった今、どうすることも出来ないものばかりだった。何一つ取り返しなどつかない。彼女が彼を憎んでいることも、許せないことも、やはり変えようがないのだから。
 それでも彼女の心に亀裂が入り始めていた。
 幼い頃の記憶が、彼女に昔の感情を運んでくる。
 それは、優しい思い出を捨て続けてきた彼女が、初めて真っ向から“優しさ”を認めた瞬間だった。
 とても切なくて、
 甘くて、
 痛々しくて、
 息が止まるほどの、
 イノセントな感情。

「ずっと昔……、まだ私が子供だった頃……。あなたに憧れていたわ……」

 広い背中に背負われて朝焼けを見た時――とても眩しく見えたのは、その光景を“彼が見せてくれた”からだ。そして彼の語る夢や故郷に憧れ、傷口に触れる指に優しさを感じた。
 きっと……あれは……芽生えだったのだ。
 人としての幸福だけでなく――
 人としての、愛というものへの。

「あの時は……好きだったのかもね……あなたのこと……」

 気づけば、彼女の瞳からも透明な滴が零れ落ちていた。

 ◇◇◇

『あの人のために私は泣いたのよ……!』

 真実をミシェルの手によって暴かれた時、彼女は我を失ったようにそう叫んだ。あの人のために泣いた。それが彼女の想いのすべてでもあった。
 十二歳を迎えた、あの運命の日。彼女は静かに涙を流し、東洋の男に「大事な人達に、お礼を言えなかったのが悲しいのです」と告げた。それは確かに間違いではなく、奴隷の青年だけでなく娼婦たちにも彼女は感謝をし、そして、心を開こうとしていた。
 それでも根本的な部分で、彼女の涙の大部分は、青年に捧げられていた。
 あの人のために私は泣いた。
 ずっと、ずっと、私を助けようとしてくれた人のために泣いた。
 「優しくしてくれてありがとう」と言えなかったことが悲しくて泣いた。
 彼が殺されてしまったと思ったから泣いた。

 あの人のために私は泣いた。

 今の、この涙は、誰のためのものだろう。
 彼のために流すものなのか。
 それとも自分のためなのか。

 きっと――
 二人のための涙なのだろう。

 ◇◇◇

 彼女は再び、幻想の世界を続けることにした。愚かなことをしている自覚はあったし、彼とかつてのように接することや、その手に触れることは、やはり複雑な思いがあった。けれど、心の中に広がる温かいものを無理やり無視するほど、かたくなでもなくなっていた。
 自分の中に芽生えた優しさを、認めてあげる気になっていた。
 本当の彼の心を、認めてあげる気になっていた。
 だから彼女は、幻想を続けながら、彼を導いてあげようと思った。
 表向きは、彼の手に引かれながら。幻想という呪縛の世界から、本当の意味で解放されるために。彼の、次の世のために。世の理――無の世界へと連れていってあげようと。
 二人は小麦の波を歩き始めた。
 彼女は一度、きつく目を瞑った。
 そしてかつての青年の姿を思い浮かべ、目を開いた。
 彼女の手を導くその青年は、優しく微笑んでいた。

(ねえ、ヤコポ)
(私はやっぱり、あなたと巡り合いたいとは思わないわ)
(だって次の世でもあなたと出会ったら、また大変な目に遭う気がするのだもの)
(あなたと関わるのは、もうこりごりよ)
(だから私は、あなたとの再会は願わない)
(あなたのことは大嫌いよ)

(それでも、あなたが、私との再会をどうしても願うというのなら――)

(あなたの願いが、私の否定を覆すというのなら――)

(必ず私を幸せにして)





(それが出来た時に……あなたを…………――――)


 Fin.